鎌倉 (旧鎌倉郡) の歴史を訪ねて    
     甘縄神明神社        鎌倉     
      
    
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   和銅3年(710)の創建と伝えられます。鎌倉市最古の神社とされています。
 源氏との縁が深く、源頼義(みなもとのよりよし)がこの神社に祈って八幡太郎義家(よしいえ)が産まれたといいいます。 頼義、義家父子は、前九年・後三年の役(1051-87)で活躍した武将です。

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  << アプローチ >>    
      (JR鎌倉駅(西口)より)  
  ・   JR鎌倉駅(西口) 〜 (今小路 または 御成通り) 〜 六地蔵  ( およそ 600m )  
  ・   六地蔵 〜 (由比ヶ浜大通り) 〜 甘縄神明神社参道入り口  ( およそ 900m )  
  ・   甘縄神明神社参道入り口 〜 甘縄神明神社  ( およそ 150m余 )  

 JR鎌倉駅西口から、市役所前を左に折れ今小路を六地蔵まで行きます。途中にある御成小学校のある一帯は中世の武家屋敷の跡地です。明治時代には御用邸が創られました。小学校はその跡地に創られました。 さらにすすみ、門注所旧跡の碑、裁許橋をすぎ、六地蔵のある由比ヶ浜大通りにでます。
 またJR鎌倉駅西口から御成通り商店街を通り由比ヶ浜大通りまで行くこともできます。御成通り商店街は鎌倉らしい趣きのある商店街です。
 由比ヶ浜大通りに出たら、右方向に長谷方面を目指します。900m程で右にある小路に入ります。それが甘縄神明神社への参道です。
 



   甘縄神明神社 (あまなわしんめいじんじゃ)                  
 縁起によると、和銅3年(710)行基の草創で、染屋太郎大夫時忠が山上に神明宮、山下に神輿山円徳寺を建立したのがはじまりとされています。
 もとは、甘縄神明宮、神明宮と称しました。
 祭神は 天照大神(あまてらすおおみかみ)です。
 また、源氏との縁が深く、源頼義(みなもとのよりよし)が、相模守として下ったとき、平直方(たいらのなおかた)の娘を娶り当神社に祈ったところ八幡太郎義家(よしいえ)を授かり産まれたといいます。  頼義、義家父子は、前九年・後三年の役(1051-87)で活躍した武将です。
 その後も、源頼朝(みなもとのよりとも:鎌倉幕府を開いた)、その妻政子(まさこ)、三代将軍源実朝(みなもとのさねとも)などの当神社への参詣が「吾妻鏡」に記されています。

<前九年の役(1051-62)>
 奥州(東北)で土豪の安部頼義(あべのよりよし)一族が起こした乱で、朝廷は頼義、義家父子にこの追討を命じました。頼義、義家父子は関東の武士を率い出羽の土豪の清原武則(きよはらのたけのり)の助力を得てこれを鎮圧しました。

<後三年の役(1083-87)> 
 前九年役の後、清原氏が安倍氏の旧領をあわせ勢力を振るい、やがて一族の間で争いが起こりました。陸奥守(むつのかみ)の源義家は関東の武士を率い清原一族の藤原清衡(ふじわらきよひら)を助けこれを鎮圧しました。
 朝廷は、これを一族の私闘であるとし恩賞を出しませんでした。義家は私財をなげうって従った武士に恩賞を与えました。このことは東国の武士からの信望を厚くし後の東国での源氏の基盤となりました。
 また奥州藤原氏はその後100年間にわたり繁栄し平泉文化が栄えました。
    
       
甘縄神明神社 画像 甘縄神明神社 画像 甘縄神明神社 画像  
甘縄神明神社 甘縄神明神社 甘縄神明神社 拝殿  
 
     
       
甘縄神明神社 狛犬 画像 甘縄神明神社 狛犬 画像 甘縄神明神社 本殿 画像  
甘縄神明神社 狛犬 甘縄神明神社 狛犬 甘縄神明神社 本殿  
 
     
(鳥居前から境内へ)

 鳥居の左わきに建つ石標には「甘縄神明宮」とあります。この石標は宝永6年(1709)の建立です。
 鳥居をくぐると、右側すぐの所に「足達盛長邸址」の石碑が建っています。この石碑の前から東側あたりに安達(足達:あだち)氏四代(盛長(もりなが)、景盛(かげもり)、義景(よしかげ)、秦盛(やすもり))の館が在ったと思われています。

<安達氏について>
 安達盛長(あだちもりなが)は藤原魚名の子孫といいます。陸奥の国安達郡に居住し安達を名乗ったといいます。頼朝(よりとも)の乳母比企尼(ひきのあま)の娘を妻としたことから頼朝との関係を深め、頼朝の挙兵、石橋山の合戦(治承4年(1180))のおりから側近として信任を受け活躍をしました。その後も盛長、景盛と幕府の要職を努めました。
 その後、義景、秦盛は、北条氏(代々幕府執権をつとめた)との関係も深め、幕府の要職を歴任しました。
 秦盛のとき、平頼綱(たいらのよりつな:北条得宗家に仕え勢力を持っていた)と対立し、弘安8年(1285)、霜月騒動(しもつきそうどう:弘安合戦ともいう)にて敗れ、安達氏につらなる一族の多くが滅ぼされました。

 鳥居から石段を数段上がると開け、左手は草原の中に石塔、五輪塔などが点在しています。寺院の名残りでしょうか。なお、この山下には明治初年の神仏分離まで甘縄院という寺院がありましたが廃絶しました。
 右手には、手水舎、その後ろに万葉歌碑、さらに右手に神輿庫があります。
 万葉歌碑は、平成7年(1995)、厚志の人々により建立されたもので、「鎌倉のみ越の崎の岩崩の君が悔ゆるべき待たじ」との東歌(あずまうた)が記されています。「み越の崎」とは稲村が崎のことと考えられていますが、ここのうら山を「神輿嶽」ということもあります。山上の拝殿前やうら山からは由比ヶ浜から稲村ヶ崎がよく見渡せます。
 正面の石段上り口左わきには「北條時宗公産湯の井、二條公爵愛用の井」があります。北条(條)時宗(ほうじょうときむね)の父は執権時頼(ときより)です。安達氏との関わりも深く、安達邸のあったこの地に「産湯の井戸」の伝承が伝わったのでしょう。また 二條公爵とは、明治期に長谷に別荘を所有者としていたという二条公爵夫人のことかとおもわれます。
    
       
「足達盛長邸址」の石碑 画像 甘縄神明神社 石塔 画像 甘縄神明神社 石塔・石仏 画像  
「足達盛長邸址」の石碑 草にうもれる 石塔 草にうもれる 石塔・石仏  
 
     

       
北條時宗公産湯の井、二條公爵愛用の井 画像 甘縄神明神社 手水舎 画像 万葉歌碑 画像  
北條時宗公産湯の井、二條公爵愛用の井 甘縄神明神社 手水舎 万葉歌碑  
 
     

(拝殿、本殿へ)

 石段を上ると山上の拝殿があります。拝殿の前には狛犬、石灯篭が置かれています。拝殿のうしろにはさらに石段が続き、さらに上ったところに本殿があります。
 拝殿わき右側に、境内社の「五所神社」、少し離れて石段の上に「秋葉神社」があります。
 拝殿前から、上ってきた石段を振り返ると、鳥居の向こうに参道から街並み、さらに由比ヶ浜から稲村ヶ崎が見渡せます。拝殿に向かった右に裏山へ続く山道があります。上っていくと、こちらにも由比ヶ浜から稲村ヶ崎がよく見わたせる所があります。
    
       
甘縄神明神社 屋根修復記念碑と秋葉神社 画像 境内社 秋葉神社 画像 境内社 五所神社 画像  
甘縄神明神社 屋根修復記念碑と秋葉神社 境内社 秋葉神社 境内社 五所神社  
 
     

       
甘縄神明神社 画像 甘縄神明神社 画像 甘縄神明神社 画像  
拝殿前から参道を振り返る うら山から由比ヶ浜、稲村ヶ崎を望む 拝殿前の石碑  
 
     

(鳥居前、参道と周辺)

 鳥居前すぐの所に鎌倉市景観重要建築物に指定されている「加賀谷邸(かがやてい)」があります。端正なつくりの和風建築物の一部に洋館部を備えた住宅建築物です。
 鳥居前の西側の路地には、かつて川端康成が居住した住居が残されています。旧川端康成邸。

<川端康成>
 現代の代表的な文学作家、昭和43年(1968)にノーベル文学賞を受賞した。代表作は「伊豆の踊り子」「雪国」「古都」など。
    
       
甘縄神明神社参道 画像 加賀谷邸 画像 加賀谷邸解説板 画像  
甘縄神明神社参道 加賀谷邸 加賀谷邸解説板  
 
     

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