鎌倉 (旧鎌倉郡) の歴史を訪ねて    
      鎌倉  朝比奈切通  を歩く      
   朝比奈切通 朝夷奈切通 熊野神社 朝夷奈三郎義秀 上総介広常の邸跡   
    
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<< 朝比(夷)奈切通し (あさひ(い)なきりどおし) >>
 鎌倉七切通(鎌倉七口)の1つで、鎌倉幕府政権下の鎌倉の東方面の重要な出入り口であり、防衛の要所でした。
 朝夷奈三郎義秀(あさいなさぶろうよしひで)が一夜で切り開いたという伝説があります。朝夷奈三郎義秀は和田義盛の三男で豪勇の武士であったといいます。
 現在、切通の道は史跡として残され、またハイキング路として利用されています。



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  朝比奈切通 十二所 付近
 
 
  << コース と アプローチ >>    
        朝比奈(バス停)より入り,十二所方面に抜けるコースを取って,帰りに十二所周辺に立ち寄り散策してみるのがよいでしょう。

 
         ○ 朝比奈(バス停)へ
     ・神奈川中央交通バス (京急)金沢八景駅〜(JR)大船駅
     ・京急バス (京急)金沢八景駅〜(JR)鎌倉駅
       それぞれの駅から,該当の行き先のバスに乗車し,”(バス停)朝比奈”にて下車してください。
 
         ○ 十二所神社(バス停)・十二所(バス停)・ハイランド入口(バス停)へ
     ・京急バス (京急)金沢八景駅〜(JR)鎌倉駅
       それぞれの駅から,該当の行き先のバスに乗車し,それぞれのバス停にて下車してください。
 




   朝比奈切通 (あさひなきりどおし)  鎌倉七切通;鎌倉七口  (国史跡)           
 鎌倉七切通(鎌倉七口)の1つで、鎌倉政権(鎌倉幕府)下の鎌倉の交通の要所であり、防衛の要所でした。
 源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉に幕府を開くと、鎌倉の市街地は整備され人口も増えていきました。それにともない、人も物資も多く流出入するようになりました。そこで幕府は鎌倉への交通路の整備を進めました。そのうちの1ヶ所が朝比奈切通です。鎌倉から見て東方面の出入り口で、鎌倉の市街地と(現)東京湾の西岸にある六浦津(現 横浜市金沢区)を結んでいました。仁治2年(1241)に急峻な山肌を開削し開通させました。当時の執権(しっけん)北条泰時(ほうじょうやすとき)が自ら監督し,工事を急がせたといいます。
 六浦津は天然の良港で、安房(あわ),上総(かずさ),下総(しもうさ)など関東各地をはじめ、海外(唐)とも交易し、物資集散の場でした。船で運ばれた物資は,この切通しを越えて鎌倉に運ばれました。また当時の六浦は、塩の産地でもありました。鎌倉幕府にとって、またのちの鎌倉にとっても重要な場所でした。切通は重要な物資輸送路となりました。
 その後、切通は整備が続けられ、幾度も掘り下げられ広げられていったと思われます。明治初期頃にはほぼ現代の状態になったと思われます。その後は地方道も整備され、切通は実用としての利用を終えました。今では史跡として残され、古をしのぶことができるハイキング路として親しまれています。
 なお、切通開削の以前は、険阻ながらも道があり、切通はそこを開削し開通したと思われます。また、付近の尾根筋には、今も朝比奈古道といわれる道があります。そこにも、より以前から利用されていた道があったと思われています。
 なお、一説では朝比奈切通(あさひなきりどおし)はもとは朝夷奈切通(あさいなきりどおし)であったといいます。朝夷奈とは朝夷奈三郎義秀(あさいなさぶろうよしひで)が一夜にして切り開いたといういい伝えがあり、それにちなんだ呼び名だといいます。

<<朝比奈古道について>>
 朝比奈切通の近くに朝比奈古道とよばれる道が残っています。
 鎌倉側からたどる場合は、十二所から朝比奈切通の旧道に入り、三郎の滝まえの道の分岐まで来ます。その分岐を左に切通に向かう道に入り、100mほど進むと、右手(南東側)に山肌を上る道が見えます。そこが朝比奈古道といわれる道の入り口です。つづら折れの急坂を上ると道は緩やかになり尾根沿いを行くようになります。熊野神社の背後を通り、さらに朝比奈切通から分岐する熊野神社への参道を横切ります。横浜横須賀道路のトンネルの上を進み下ると主要地方道の環状四号線に出ます。
 この道が古道そのものであったとも思えませんが、この道付近に古くからの道が通っていたと思われます。
 なお、この道は途中いくつも分岐があり、またいつも整備されているとも限りません。向かわれる方はそれなりの気構えをもっていきましょう。
    

朝比奈切通画像 朝比奈切通画像 朝比奈切通画像
朝比奈切通 朝比奈切通 朝比奈切通  
 
     

<< 朝比奈(バス停)から 朝比奈切通 を歩く>>
 朝比奈のバス停から,バスの通りを鎌倉,大船方面に進み、「朝比奈切通」の案内板のある交差点を左に入り進みます。しばらく進むと、右手の木立の中へ進む未舗装の道が分岐します。これが朝比奈切通の道です。
 車止めがあり、そのわきには石造物が並んでいます。
 朝比奈切通の道は,横浜横須賀道路の高架の下をくぐり、そこを過ぎると一気に深山の中のような雰囲気になります。古の路の様子を残しています。
 やがて、少し開けた熊野神社への道の分岐点に至ります。そこには熊野神社の案内板,説明板があります。熊野神社へは左の道をたどります。
 そのまま朝比奈切通の道を進むと,周りの崖が高さを増し深い城壁に囲まれたようなところに出ます。このあたりが切通の道の海抜が一番高いところになります。また一番の見所でしょう。この先は下り坂になります。
 下りの道は,岩盤を削ったでこぼこの路面に足元を注意して進みましょう。やがて。十二所側の車止めが見えてきます。その脇に滝があり,朝比奈切通の石碑(史跡碑)が建っています。この滝は朝夷奈三郎義秀にちなんで、三郎の滝と呼ばれています。
 三郎の滝の前で道が丁字に分岐します。右に川(太刀洗川)沿いに下って行く道は十二所のバス停方向、左手の山に入って行く道は十二所果樹園に向かいます。
 左手に十二所果樹園に向う道を数十mほど上ると左手に開けた場所があります。この辺が上総介広常(かずさのすけひろつね)の邸跡と伝えられる所です。案内標識やそれらしきものはなにもありません。
 三郎の滝の前から右手の川(太刀洗川)沿いの道を下って行き十二所のバス停に向かいます。右に岩肌を流れる清流を見ながら進むと、その清流の対岸に筧がかけられそこを水が伝わって流れ落ちているのが見えます。鎌倉五名水の一つ梶原太刀洗水(かじわらたちあらいみず)です。その傍に標示板がありその上方に石の祠などもあるのですが、草木が茂り見付にくいです。
 さらに下っていくと、太刀洗川が滑川に交流しさらに進んだあたり、右手に崖が残された岩塊があり、その上に石塔・石仏が並んであります。古くは道はこの高さにあったと思われます。
 この先、道はバスの通る金沢街道の新道(地方道)に出ます。せっかく,ここまで来たのですから,時間があったら十二所周辺を散策してみるのもよいでしょう。
    


朝比奈切通画像 朝比奈切通画像 朝比奈切通画像
朝比奈側”車止め”から山道が続く 朝比奈側”車止め”脇には石造物が並ぶ 朝比奈側”車止め”脇には石造物が並ぶ  
 
     
   
 
     
朝比奈切通画像 朝比奈切通画像 朝比奈切通画像
朝比奈側「朝夷奈切通説明板」 朝比奈切通 続く切通された道 熊野神社への分岐 朝比奈切通  
 
     

<< 朝夷奈三郎義秀(あさいなさぶろうよしひで) について>>
 和田義盛(わだよしもり:三浦党和田氏の頭首、鎌倉幕府創設時の重臣)の三男、母親は不詳(一説では、源義仲(みなもとのよしなか;木曽義仲)の妾であった巴(ともえ;巴御前(ともえごぜん))ともいいます。なお巴は義仲が敗死したのち、源頼朝(みなもとのよりとも)の前に引き出されるも和田義盛が身を引き受けることで助命され、和田義盛の妾になったといいます。)
 三郎義秀は安房国(あわのくに)朝夷郡(あさいぐん)に育ったことから、朝夷奈を名のったといいます。朝夷郡は古くは「あさひなのこおり」とよばれ、また朝平郡と記されたこともあります。この地に和田氏の一門が勢力を持っていました。
 三郎義秀は大力無双で、「吾妻鏡」にもその勇猛さを伺うことができる逸話が残されています。この切通を一夜で切り開いたといういい伝えがあり、切通の名前の「朝夷奈」はこれに由来するものといいます。また「三郎の滝」の名も然りです。
 建暦(けんりゃく)三年(1213)、和田合戦のおり父の義盛に従って勇猛に戦い活躍するも敗軍となり、戦死したとも安房に逃れたともいいます。
    

朝比奈切通 三郎の滝画像 朝比奈切通 三郎の滝画像 朝比奈切通 三郎の滝画像
三郎の滝 朝比奈切通 三郎の滝 朝比奈切通 三郎の滝 朝比奈切通  
 
     


<< 上総介広常の邸跡 と 上総介平広常(かずさのすけたいらのひろつね) について>>
 十二所の奥、谷あいに上総介広常の邸跡といわれる所があります。朝比奈切通の鎌倉側の端にあたります。当時はまだ切通の開削前ですが、広常ほどの有力な武将が屋敷を構えるほどの地です。切通開削前から六浦路が通るこの地は鎌倉幕府にとって極めて重要な場所であったのでしょう。

 上総介平広常は、桓武平氏の一支流で、平忠常(たいらのただつね)の子孫といいます。(忠常;「平忠常の乱」(長元元年(1026)ー)のとき常陸国、上総国、下総国に広大な領地を持っていた武将、乱の鎮圧を命じられた甲斐守源頼信(みなもとのよりのぶ)に降伏し、その子孫は咎を許されました。)。
 広常は、先祖からの領地の多くを受け継ぎ上総介の官位も受け継ぎました。強大な武士団を率いていた武将でした。
 源頼朝は挙兵(治承(じしょう)四年(1180)し、石橋山の合戦で破れ、安房に逃れました。頼朝は、各地に書状を発し兵を集めました。しかし多くの武将は平家に気がねし、また躊躇し、参ずるものはわずかでした。そして房総半島を北上し、下総と武蔵の国境を流れる隅田河(川)のへりに宿営したときにはそれでも一千騎ほどを従えるようになっていました。そこに、上総介広常が二万余騎の大軍勢を率いて参じて来ました。広常は頼朝に従うか、それとも頼朝を討ちその首を平家に差し出すか決めかねていました。そして頼朝は参じた広常に対し感謝するどころがあまりに遅い参じを毅然とした態度で叱ったといいます。その態度に広常はこれぞ大将にふさわしい態度であると心服し、頼朝に従うことを決めたといいます。
 これを機に、関東の多くの武将たち、様子見をしていた者、躊躇していた者、さらに平家側についていた者までもが次々と頼朝の元に参じました。そして鎌倉に入るときには、五万騎にまで成っていたといいます。
 広常の参陣が坂東の諸氏の動向を決定付けました。広常は鎌倉幕府創設の一番の功労者というべきでしょう。しかしながら、その後、頼朝は広常を疎んじるようになりました。広常は朝廷や西国のことなど放っておいて坂東をしっかり治めればよいと考えていました。しかし頼朝は平家との対立はいずれ避けられなくなると考えていました。幕府の方針において決定的な違いがあったのです。しかも数万の軍勢を束ねる広常を無視はできません。また頼朝に対し不尊は振る舞いも多くあったといいます。頼朝にとってしだいに不都合な存在になっていったのです。
 寿永二年(1183)十二月、広常は頼朝の意を受けた梶原景時(かじわらかげとき)により、誅殺されました。
 事件は幕府内で起きました(広常の邸内との説もあります)。
 景時と広常が双六を打っていると、景時が相手の隙をみていきなり立ち上がり双六の盤ごしに太刀を振り下ろし広常の体を切り割ったといいます。景時はさらに幕府を出ると、準備させていた数百騎を率いて六浦路を東に駈け広常邸を襲撃しました。邸にいた留守の者、広常の一族のものは不意をつかれ抵抗するまもなく討ち取られました。

<< 梶原太刀洗水(かじわらたちあらいみず) >>
 太刀洗川沿い、三郎の滝の少し下流に鎌倉五名水の一つ梶原太刀洗水(かじわらたちあらいみず)があります。川沿いの道の対岸に筧がかけられそこを水が伝わって流れ落ちているのが見えます。
 寿永二年(1183)十二月、頼朝の意を受けた梶原景時(かじわらかげとき)により上総介広常は誅殺されました。広常邸も襲撃されました。そのおり、梶原景時がこの湧水で血糊のついた太刀を洗ったといい伝えられています。
 この湧水が上総介広常の邸跡に近いことから、この様ないい伝えが生まれたのでしょう。
    


上総介広常の邸跡 画像 太刀洗川画像 梶原太刀洗水画像
上総介広常の邸跡 太刀洗川 梶原太刀洗水  
 
     



朝比奈(六浦路)旧道 画像 朝比奈(六浦路)旧道 画像  
石塔・石仏 朝比奈(六浦路)旧道 石塔・石仏 朝比奈(六浦路)旧道  
 



   熊野神社 へ      鎌倉府の鬼門の守り           
 源頼朝が鎌倉に幕府を開き,その後の朝比奈切通開通工事に際し,守護神として熊野三社大明神を勧請したのがはじまりとのことです。
 鎌倉の府の鬼門の守りとして祀られたとのことです。

 熊野神社へは朝比奈切通の分岐から熊野神社への山道をたどります。やがて木立の間に熊野神社の拝殿とその後方に本殿が見えてきます。
 鳥居から続く石段の上に拝殿が見えます。
 本殿は,拝殿の後ろにあります。拝殿を後ろに回りこみ,さらに何段かの石段を上ると本殿につきます。
 うっそうと茂った木々の中にある深山の神社といった感じです。とても大都会横浜とは思えない雰囲気です。(熊野神社は鎌倉市と横浜市の境,横浜市よりにあります。)


    

熊野神社画像 熊野神社画像 熊野神社画像
木立の間から見える拝殿と本殿 石段の上に拝殿が建つ 熊野神社 本殿  
 
     

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