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鎌倉幕府が開かれたとき、初めに幕府が置かれたのは大倉(おおくら)の地です。その後、幕府は若宮大路沿いに移転されました。一度目の移転では、南へ数100mほどの宇都宮神社のあるあたり。二度目は、少し北方向に戻った所です。なお二度目の移転は同一の幕府郭内での一部の施設の建て替えや移設であり幕府の移転とはみなさないとするのが一般的です。
現在、大蔵(大倉)(おおくら)幕府跡、宇津宮辻子(うつのみやずし)幕府跡、若宮大路(わかみやおおじ)幕府跡、それぞれの場所には石碑が建てられています。 |
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<< アプローチ >> |
(JR鎌倉駅(東口)より) |
・(大蔵幕府旧蹟の石碑まで) JR鎌倉駅(東口)から鶴岡八幡宮まで若宮大路または小町通りを経由して徒歩 10 〜 20 分ほど。鶴岡八幡宮の東鳥居から東方向に大蔵幕府旧蹟の石碑までおよそ400m。 ・(宇津宮辻子幕府旧蹟の石碑まで) JR鎌倉駅(東口)から若宮大路に出て、鶴岡八幡宮方向に進み、鎌倉彫会館と雪ノ下カトリック協会のある路地を東方向に入ります。およそ400m。 ・(若宮大路幕府旧蹟の石碑まで) ◯(鶴岡八幡宮から)東鳥居を出てすぐの路地を南方向に進みます。およそ200m。 ◯(宇津宮辻幕府旧蹟の石碑から)宇都宮神社裏手の路地を北方向に進みます。およそ200m。 (3つの幕府跡の位置と付近の略地図は 鶴岡八幡宮 と 周辺 のページへ) |
大蔵(大倉)(おおくら)幕府跡 |
大蔵幕府旧蹟の石碑 と 大塔宮案内板 | かつての大蔵(大倉)幕府の中心地 |
鎌倉幕府創始のとき、関東の武士をまとめ鎌倉に入った源頼朝(みなもとのよりとも:(鎌倉幕府の創始、初代将軍))が、初めに御所(ごしょ)を設けたのが大倉(おおくら)の地で大倉御所と呼ばれています。治承(じしょう)四年(1180)12月に造営されました。なお鎌倉幕府の創始時期をいつとするかについては諸説あります。
以後、大倉御所の周りには侍所などの施設が整えられていき、幕府の廓内が仕切られ東西南北に門が設けられました。そして西御門(にしみかど)には三浦氏が、東御門(ひがしみかど)には比企氏が、南御門(みなみみかど)には畠山氏、八田氏がそれぞれの御門を守るように邸宅を構えました。北御門(きたみかど)は背後が山で、その中腹には頼朝の持仏堂が建立されました。持仏堂はのち法華堂と呼ばれるようになりました。 その後、嘉録(かろく)元年(1225)12月、宇津宮辻子(うつのみやずし)に幕府、御所が移されるまでの40年余、大倉は幕府政治の中心でした。 <<大蔵幕府旧蹟の石碑と 大蔵(大倉)(おおくら)幕府跡>> 清泉小学校の敷地の西南角に「大蔵幕府旧蹟」の石碑が建ちます。このあたりがかつて大倉に置かれた幕府の中心地です。敷地の広さは、東西約370m、南北約220mほどあったと推測されます。寝殿造りの御所が建ち庭には池や釣殿もあったといいます。御所の背後北側は山で中腹に頼朝の持仏堂のちの法華堂が建立されました。 <<法華堂(ほっけどう)跡と白旗神社(しらはたじんじゃ)>> 大蔵幕府跡の北側は山で、その麓に白旗神社があります。ここの白旗神社は源頼朝を祀る神社です。神社の入り口傍には「法華堂跡」の石碑が建っています。ここに頼朝の法華堂がありました。明治政府による神仏分離により法華堂は廃され白旗神社が創建さました(明治五年(1872))。のちその境内地は「法華堂跡」として国の史跡に指定されました。 白旗神社の入り口鳥居前から右脇に山の上に向かう階段があります。これは「源頼朝の墓」へ続いています。元々は法華堂はこの階段上の「源頼朝の墓」のある平地にありました。それがいつしかこの階段下の場所に移されました。江戸時代のころにはこの場所にあったといいます。 <<源頼朝(みなもとのよりとも)の墓 と 法華堂(ほっけどう)、頼朝の持仏堂>> 白旗神社の入り口鳥居前から右脇に山の上に向かう階段があります。この階段上の平地に「源頼朝の墓」があります。鎌倉幕府創始のころ、この場所には頼朝の持仏堂が建てられました。頼朝が信仰していたという正観音菩薩像を本尊として安置していました。 正治元年(1199)1月13日に頼朝が没すると、遺骸はこの場所に葬られました。その後の法要や仏事もここ持仏堂で行われました。翌年の一周忌の法要もここで行われましたが、その時は法華堂と呼ばれています。このころ以降「法華堂」と呼ばれるようになったようです。 ・(和田合戦 と 法華堂) 健保元年(1213)、和田合戦(わだがっせん)のおり、和田義盛(わだよしもり)の三男朝夷奈三郎義秀(あさいなさぶろうよしひで)が幕府廓内に逃げ込んだ北条方(執権北条義時(ほうじょうよしとき)の軍)を追って御所に攻め入りました。その時御所にいた将軍源実朝(さねとも)、執権北条義時、重臣の大江広元(おおえひろもと)は御所を抜け出しこの法華堂に避難しました。 なお、この事件は北条方によって仕組まれたともいわれています。これにより和田方は将軍に弓を引く謀反人となり、和田方に付くつもりでいた御家人や、様子見をしていた御家人の多くが北条方に付き、そして和田方は敗北し一族は滅亡しました。 ・(三浦一族の滅亡 と 法華堂) 宝治元年(1247)、宝治合戦(ほうじがっせん)のおり、北条方に攻められた三浦邸には火が放たれ、三浦秦村(みうらやすむら)以下一族は三浦邸を出てこの法華堂にこもり、総勢500余人が自害しました。三浦一族は滅亡しました。 三浦邸はここから程近い西御門にありました。 その後時が移り、法華堂は階段下の現在白旗神社のあるところに移されました。江戸時代のころには現白旗神社の場所にあったといいます。 |
白旗神社前 源頼朝の墓へ続く階段 | 白旗神社 法華堂跡 | 「法華堂跡」の石碑 | ||||
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源頼朝の墓 | 「源頼朝の墓」の解説板 | 「源頼朝の墓」の解説板 | ||||
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<<西御門(にしみかど)跡>>
大蔵幕府跡の北側、白旗神社、法華堂跡の前を東西にのびる道があります。この道を100mほど西へ進むと、丁字路となり西御門の谷(やつ)の奥へ向かう道に出ます。この交差点近く横浜国大附属校の敷地を背にして「西御門」の石碑が建っています。背後の国大附属校の敷地に三浦氏の邸宅があったといいます。しかし、実際はもう少し西側まで幕府の敷地であったと推測されます。西御門もここから数十mほど西に寄った辺りに在ったと思われます。 <<東御門(ひがしみかど)跡>> 大蔵幕府跡の北側、白旗神社、法華堂跡の前を東西にのびる道があります。この道を150mほど東へ進むます。この交差点近く「東御門」の石碑が建っています。実際はもう少し東側まで幕府の敷地であったと推測されます。東御門はこの辺もしくはもう少し東に寄った辺りに在ったと思われます。 |
「西御門」の石碑 | 「東御門」の石碑 |
宇津宮辻子(うつのみやずし)幕府跡 |
嘉録(かろく)元年(1225)、宇津宮辻子に御所が新造され、大倉御所から宇津宮辻子御所へと将軍御所が移され、幕府が移転されました。その後、嘉禎(かてい)二年(1236)には若宮大路に面して御所が建て替えられ再び若宮大路御所へと移されました。
なお、宇津宮辻子御所から若宮大路御所への移転は、同一幕府廓内での施設の移設であり、幕府の移転とはみなさないとするのが一般的です。 現在、宇津宮辻子御所があったというところには宇都宮稲荷神社があり、鳥居脇に「宇津宮辻幕府旧蹟」の石碑が建っています。 <<北条泰時(ほうじょうやすとき:鎌倉幕府3代執権)の政略 と 幕府の移転>> 幕府の移転の理由については諸説ありますが、北条泰時が対三浦氏の対戦準備のために行ったとの推測ができます。 鎌倉幕府の創始である源頼朝が亡くなる(正治元年(1199))と、北条時政(ほうじょうときまさ)は幕府の実権を握り執権を名乗りました。その子義時(よしとき)は2代執権になりました。時政、義時はさらに他氏の排斥を行い幕府創始以来の御家人の多くを謀殺し、失脚させ、懐柔し、多くの氏族を滅亡させました。そうして幕府の権力掌握をより確かなものにしていきました。 義時の子の泰時が3代執権になり、そのころには北条氏に対抗できるような有力な御家人は三浦氏が残るのみになっていました。泰時はすでに幕府の多くの権限を掌握していました。それを用い対三浦氏の対戦準備を行いました。鎌倉内の道の拡張や施設の配置・改修を行い自軍側の移動や展開を行いやすくしました。敵方の移動は監視しやすく妨害しやすくし、また勢力の分断や懐柔を行いました。 そんな中で幕府の移転は行われました。当時は、騒乱が起こった場合、将軍と将軍御所をどちらが掌握するするかによって戦況と経過が大きく左右しました。大倉御所では西御門の三浦邸の間近にあり、有事には三浦方が素早くおさえてしまうでしょう。それに比べ移転先の宇津宮辻子御所は、三浦邸からは南に大きく離れ、その北側に燐して北条執権邸が造営され、北条執権邸が御所と三浦邸の間にあり分断できます。また三浦方についていた名越流北条氏とも分断できます。有事には将軍も将軍御所も北条方でおさえることができるでしょう。 そのようなことからか、宇津宮辻子御所への将軍御所の移転はずいぶん慌しく行われたようです。嘉録(かろく)元年(1225)、7月に北条政子が69歳で没すると、にわかに御所移転の計画が進められ、12月には御所は落成し、亡き源実朝(みなもとのさねとも:鎌倉幕府3代将軍)の後継として既に鎌倉に入っていた藤原(九条)頼経(ふじわら(くじょう)よりつね:4代将軍)が入り、元服し、翌年1月には将軍宣下が行われました。 その後、仁治三年(1242)、北条泰時は60才でなくなりました。4代執権には泰時の孫の経時(つねとき)がつきました。寛元四年(1246)に経時の弟の時頼(ときより)が5代執権につきました。 時頼が動きました。宝治元年(1247)6月、北条方の安達氏の軍勢が西御門の三浦邸を攻めました。宝治合戦(ほうじがっせん)が始まりました。それまでに三浦方の氏族は失脚され、誅殺され、懐柔されていました。また鎌倉内の道はすべて北条方におさえられ本拠の三浦からの援軍もありません。退却もできません。そんな中、三浦邸に火が放たれ、三浦秦村(みうらやすむら)以下一族は三浦邸を出て法華堂にこもり、総勢500余人が自害しました。三浦一族は滅亡しました。 <<宇津(都)宮辻子(うつのみやずし)>> 宇都宮稲荷神社の前、鳥居脇に「宇津宮辻幕府旧蹟」の石碑が建っています。石碑にある「辻」は「辻子」のことです。「辻子」とは、小路や細道のことです。若宮大路や小町大路に対して裏道のような小路があったのでしょう。「宇津(都)宮辻子」はこの辻子(小路)の名称と思われます。道沿いに、または近くに宇都宮氏の邸宅があったことに所以し呼ばれた名称だと思われます。または「宇都宮稲荷神社」がある故に呼ばれた名称なのかもしれません。 嘉録(かろく)元年(1225)、この小路近くに御所が造成され、それは「宇津宮辻子御所」と呼ばれました。 <<宇都宮稲荷神社(うつのみやいなりじんじゃ)>> 若宮大路から、鎌倉彫会館と雪ノ下カトリック協会のある路地を東方向に入ったすぐのところに、宇都宮稲荷神社があります。鳥居脇に「宇津宮辻幕府旧蹟」の石碑が建っています。ここは宇津宮辻子御所が置かれたところでもあります。 宇都宮稲荷神社の由緒等はよく分かっていません。以前、この鳥居を入ったところに「宇都宮稲荷神社・宇津宮辻子幕府 由緒」とある木製の解説板がありました(今はありません;2018年現在)。それによると、下野(しもつけ)の豪族である宇都宮氏の子孫は各地に移り住みその屋敷に稲荷神社を祀ったとのことです。また源頼朝が鎌倉幕府の創建にあたり治承(じしょう)四年(1180)に鎌倉入りしたとき、幕府重臣である御家人宇都宮朝綱(うつのみやともつな)がこの地にあり、日光山宇都宮神社の分霊をこの地に祀ったとのことです。それが当神社の始まりとなったとのことです。 |
宇津宮辻子幕府跡 宇都宮神社前小路 | 宇津宮辻子幕府跡 宇都宮神社 | 宇都宮神社と「宇津宮辻幕府旧蹟」の石碑 | ||||
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宇津宮辻子幕府跡 |
「宇津宮辻幕府旧蹟」の石碑 | 「宇都宮稲荷神社・宇津宮辻子幕府 由緒」 | |||
宇津宮辻子幕府跡 | (以前設置されていた解説板)宇津宮辻子幕府跡 |
若宮大路(わかみやおおじ)幕府跡 |
嘉禎(かてい)二年(1236)には若宮大路に面して御所が建て替えられ将軍御所は宇都宮辻子御所から若宮大路御所へと移されました。その時の執権は北条泰時(ほうじょうやすとき:3代執権)、将軍は藤原(九条)頼経(ふじわら(くじょう)よりつね:4代将軍)です。将軍御所が宇都宮辻子御所に移されたときと同じです。
なお、宇津宮辻子御所から若宮大路御所への移転は、同一幕府廓内での施設の移設であり、幕府の移転とはみなさないとするのが一般的です。また、その後も御所の再建や移設は幾度か行われています。 現在、若宮大路御所があったというところには「若宮大路幕府旧蹟」の石碑が建っています。 石碑は、狭い小路の十字路の隅に建っています。ここの東西にのびる小路は大学辻子とよばれていたといいます。この小路が若宮大路幕府の敷地の北側の境界であったと思われています。この北側には北条執権邸が造営されました。 |
「若宮大路幕府旧蹟」の石碑 | 石碑右側の小路が幕府敷地の北側境界(石碑から西方向) | 幕府敷地の北側境界の小路(石碑から東方向) | ||||
若宮大路幕府跡 |
若宮大路幕府跡 | 若宮大路幕府跡 |
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