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<<源太塚 (裏山)>>
裏山へ上ると墓地に出ます。その先、山頂に小高い円墳状の「源太塚」があります。
鎌倉幕府の有力な御家人、梶原景時(かじわらかげとき)の嫡男源太景季(げんたかげすえ)の片腕を埋めた塚と伝えられています。
景季が討死したとき、妻の信夫(しのぶ)は夫の死を悲しむあまり、塚の傍らで自害して果てたといいます。
近くに、かつて「しのぶ塚」があったといいます。「しのぶ塚」は宅地開発の折移され、現在は500mほど離れた鎌倉山の住宅地内に仏行寺の方を向いて建っています。
<<梶原景時・梶原源太景季について>>
梶原景時は、源頼朝(鎌倉幕府初代将軍)の側近として、活躍、暗躍した武将です。「平家物語」によると、原平合戦で義経軍の軍(いくさ)奉行を勤め義経とは意見の対立等があり不仲であったといいます。平家滅亡の後、景時が報告する書状で義経の不義を訴え、後に義経の失脚をまねくことになったとされています。
景時の嫡男の源太景季も頼朝の信任を得、仕えました。弓の名手であったとも伝えられています。
頼朝の死後、正治元年(1199)有力御家人たち多数が景時を弾劾し、それが元で一族は鎌倉を追われました。
正治2年(1200)起死回生を図るため、景時らは、密かに京へ向かいました。しかし駿河の国、狐ヶ崎((現)清水市内)あたりで在地の武士の襲撃を受け景時以下(景季も)一族敗死しました。
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