鎌倉 (旧鎌倉郡) の歴史を訪ねて    
       仏行寺              鎌倉 笛田    
       
    
welcome
    

   鎌倉の深沢地区((旧)深沢村;(現)梶原・鎌倉山・上町屋・手広・寺分・常盤・笛田・山崎)は、藤沢市と接し、鎌倉道上の道が通っていたと推測されるところです。鎌倉の北西側の入り口にあたります。
 笛田は深沢地区の西側に位置し、鎌倉山へ燐しています。
 仏行寺は笛田にあり、ツツジの名所として知られています。また池泉式回遊庭園、源太塚でも知られています。

     もどる     すすむ    鎌倉と鎌倉郡の歴史 indexへ     
   
 
<< アプローチ >> 
 
    バス停「梶原口」からおよそ500m
○江ノ電バス
  ・鎌倉駅東口 ー 藤沢駅、 ・鎌倉駅東口 ー 桔梗山、 ・藤沢駅 ー 桔梗山
○京急バス
  ・鎌倉駅西口 ー 大船駅

 バス停「笛田4番」からおよそ200m
○江ノ電バス
  ・藤沢駅 ー 教養センター循環

    他
 



   笛田山 仏行寺(ふえださん ぶつぎょうじ)                
       
仏行寺 画像 仏行寺 題目碑 画像 仏行寺 画像
仏行寺 山門 仏行寺 山門前の題目碑 仏行寺 本堂  
 
     

 仏性院日秀(ぶっしょういんにっしゅう)上人が、明応4年(1495)に開いた日蓮宗の寺です。開山も仏性院日秀です。本尊は十界互具曼荼羅(じっかいごぐまんだら)です。
 山門前に古い題目碑があります。享保18年(1733)建立のものです。

<<池泉式回遊庭園>>
 本堂の裏に池泉式回遊庭園があり、季節にはツツジ、蓮と花が咲き彩りをそえます。
    
       
仏行寺 画像 仏行寺 画像 仏行寺 画像
仏行寺 本堂前の庭 仏行寺 池泉式回遊庭園 仏行寺 池泉式回遊庭園  
 
     

<<やぐら・石仏・石塔 (裏山へ上る道)>>
 本堂の左手、池泉式回遊庭園の左側に裏山へ上る石段の道があります。道沿いには、やぐらがあり、石仏・石塔も多く並べられています。石仏・石塔は古いものが多く、江戸時代初期のものが多くあります。
  
       
仏行寺 石仏・石塔 画像 仏行寺 石仏・石塔 画像 仏行寺 やぐら 画像
仏行寺 石仏・石塔 仏行寺 石仏・石塔 仏行寺 やぐら  
 
     

<<源太塚 (裏山)>>
 裏山へ上ると墓地に出ます。その先、山頂に小高い円墳状の「源太塚」があります。
 鎌倉幕府の有力な御家人、梶原景時(かじわらかげとき)の嫡男源太景季(げんたかげすえ)の片腕を埋めた塚と伝えられています。
 景季が討死したとき、妻の信夫(しのぶ)は夫の死を悲しむあまり、塚の傍らで自害して果てたといいます。  近くに、かつて「しのぶ塚」があったといいます。「しのぶ塚」は宅地開発の折移され、現在は500mほど離れた鎌倉山の住宅地内に仏行寺の方を向いて建っています。

<<梶原景時・梶原源太景季について>>
 梶原景時は、源頼朝(鎌倉幕府初代将軍)の側近として、活躍、暗躍した武将です。「平家物語」によると、原平合戦で義経軍の軍(いくさ)奉行を勤め義経とは意見の対立等があり不仲であったといいます。平家滅亡の後、景時が報告する書状で義経の不義を訴え、後に義経の失脚をまねくことになったとされています。
 景時の嫡男の源太景季も頼朝の信任を得、仕えました。弓の名手であったとも伝えられています。
 頼朝の死後、正治元年(1199)有力御家人たち多数が景時を弾劾し、それが元で一族は鎌倉を追われました。
 正治2年(1200)起死回生を図るため、景時らは、密かに京へ向かいました。しかし駿河の国、狐ヶ崎((現)清水市内)あたりで在地の武士の襲撃を受け景時以下(景季も)一族敗死しました。
  
       
仏行寺 源太塚 画像 仏行寺 源太塚 画像 仏行寺 境内 画像
仏行寺 源太塚山門 仏行寺 源太塚 仏行寺 裏山より見る境内  
 
     

     もどる     すすむ   鎌倉と鎌倉郡の歴史 indexへ   このページの 上へ