鎌倉 (旧鎌倉郡) の歴史を訪ねて    
          大仏切通     (国指定史跡 と ハイキングコース)    鎌倉        
      (鎌倉七口、 鎌倉七切通し)      
    
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   大仏切通(だいぶつきりどおし)(国指定史跡)は、鎌倉七口、鎌倉七切通しの一つです。
 鎌倉の長谷と梶原・深沢の間の山を切通して開かれた道で、藤沢方面へ通じる交通の要所でした。また、鎌倉時代は鎌倉防衛の要所でした。
 現在(令和)残されている大仏切通の古道は1kmに満たない区間ですが、大仏ハイキングコースと継っていてハイキング道としても歩かれています。

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  << アプローチ と 行程>>    
   残されている古道は、梶原、常盤 側から 鎌倉長谷 側の間の 700m 〜 ほど間。その両側のバス停が最寄りとなります。

(梶原、常盤 側の最寄りバス停は「火の見下」です。路線によって「八雲神社前」、「常盤口」でもよい(少し遠くなる)。 )
 ・「火の見下」(バス停)、JR藤沢駅 ー JR鎌倉駅 間 (江ノ電バス)

(鎌倉長谷 側の最寄りバス停は「大仏坂」です。)
 ・「大仏坂」(バス停)、JR藤沢駅 ー JR鎌倉駅 間 (江ノ電バス)
  

 



   大仏切通(だいぶつきりどおし) (国指定史跡)        (鎌倉市)       

<<大仏切通の概要について>>
 鎌倉は海と山の自然の要害に囲まれた地形で、防衛に適したところでした。中世、源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉に入り幕府を創始すると、幕府は鎌倉をそこへ出入りする道を制約し防衛の要としたより頑強な防衛城塞都市としました。しかし、都市が発展し人口が増えていくと、道の制限と制約が人の往来や物流の支障になるようになりました。そこで、道の整備、拡張が行われ、そして鎌倉七口(鎌倉七切通)が整備されました。それらの道は、依然、防衛の要であり、切通しの途中には、平場(ひらば)、土塁(どるい)、曲輪(くるわ)、空堀(からぼり)、置石(おきいし)、切岸(きりぎし)など、軍事的防衛施設が設けられました。大仏切通もその一つです。
 大仏切通は、南側の前浜(由比ヶ浜)・長谷と北側の梶原・深沢をつないでいました。梶原で、鶴岡八幡宮前から化粧坂(けわいざか)を経て来る武蔵大路と合流し、 さらに深沢を経て上の道となり北関東に至り、さらには東山道(のちの中山道)を経れば京都方面へと向かうこともできました。深沢では、藤沢から東海道方面、江ノ島方面、山崎から中の道方面へ向かう道も分岐していました。
 開削の時期は記録がなく定かでありませんが、他の切通の道が拡張・整備された時期や鎌倉大仏や大仏堂の建造がされた時期と同時期に行われたと思われます。鎌倉大仏は当初は木製で建長四年(1252)8月に金銅8丈の大仏の鋳始めたとされています。また暦仁元年(1238)大仏堂の建造が始まったといいます。この頃に、それまでの山越えの細道を拡張整備し物資の搬入などに利用したと考えられます。
 その後、江戸時代には経路が変更されたといいます。明治になってからは掘り下げられ、さらに、トンネルの開削によって新道が通りました。旧来の道は大規模な破壊を免れ、かつての切通しの様子を残しています。なお、新道(県道32号藤沢鎌倉線)の開削によってトンネルの長谷側出口付近は削られ通っていた旧道は分断されその一部は消失しました。

<<<新田義貞(にったよしさだ)の鎌倉攻め と 大仏切通>>
 元弘3年(1333)5月8日、新田義貞は、幕府を倒すため上野国新田庄(群馬県太田市)に挙兵しました。挙兵時150騎、鎌倉道上の道を進み、よく9日の夕暮れには20万騎になり、鎌倉を包囲した18日早朝にはさらにその数倍の大軍になっていたといいます。
 18日、義貞は軍を三つ(三軍)に分け、化粧坂(化粧坂切通し、大仏切通)、巨福呂坂、極楽寺坂の3方面から総攻撃を行いました。しかし守りの強固な切通(きりどおし)を破ることは出来ず総攻撃は失敗に終わりました。
 初めの総攻撃のとき、義貞は中央軍(化粧坂方面軍)を指揮しており、攻撃の主力としていました。しかし、その切通しの防御の頑強さから攻撃の主力を極楽寺(稲村ヶ崎)方面に移し、義貞自身も極楽寺(稲村ヶ崎)方面に移動しました。
 結果、新田方は稲村ヶ崎の海岸沿いの防衛の突破に成功しました。各切り通しの幕府軍(北条方)防衛線は背後を突かれ崩壊しました。そして、新田軍数十万が鎌倉に乱入し鎌倉幕府は滅亡しました。
 この戦いでの各切通の防衛は頑強で、背後を突かれるまでは防衛線を維持していました。大仏切通は他の切通に比べて傾斜もきつく通行が困難であったといい、より頑強であったと思われます。
    

   古道大仏切通 を歩く (散策、ハイキング)        (現在)       

<<ハイキング道としての 「(古道)大仏切通」 (現在)>>
 現在、古道の大仏切通は、「国指定史跡大仏切通」となっていて保護されています。その区間を含んだ山道が整備されおよそ700m 〜 ほどハイキング散策できます。 「火の見下」バス停と「大仏坂」バス停の間です。その前後は自動車の行き交う幹線道路(県道32号藤沢鎌倉線)に出てしまいます。
 途中に、大仏ハイキングコースとの分岐があり、そこにある標識には「源氏山公園・銭洗弁財天 1.8Km」とあります。そのコースとたどると、かなり長く、しかもアップダウンのある樹林の路の散策を楽しむことができます。さらに「源氏山公園・銭洗弁財天」からは、各方面へ散策やハイキングができるコースがあり、散策を続けることができます。
 また、大仏ハイキングコースとの分岐の長谷方向すぐ先に極楽寺方面への道も分岐しています。こちらは水道局の長谷配水池の脇を通ったすぐ先で谷(やつ)の住宅地道路に出ます。その道を下っていくと、極楽寺、江ノ電極楽寺駅に至ります。
    
       
火の見下 画像 火の見下 画像 火の見下 画像  
火の見下から大仏方向、大仏切通への入り口 火の見下から大仏切通へ向かう 火の見下から大仏切通へ向かう  
 
     
◯ 「日の見下」バス停から歩いてみます。
 「日の見下」バス停は「県道32号藤沢鎌倉線」の大仏トンネルの深沢側にあるバス停です。
 バス停の眼の前、大仏、長谷方向に向かって左手道脇に案内標識が立っています。
 案内標識には左方向を指して「大仏切通」、「大仏ハイキングコース」とあります。それに従って、左方向、住宅の間の狭い路地に入ります。
 路地の道は、数十mほどで上り坂の山道になります。ここで左に分岐する道があります。そちらへ進むと、切岸とやぐらを見ることができます。
    
       
大仏切通 画像 大仏切通 画像 大仏切通 画像  
大仏切通 大仏切通  大仏切通 解説板  
樹林の中の道を行く 
なお 続く急坂      

<<切岸とやぐら>>
 切岸とは、防衛のために山を削り崖を作ったものです。崖の上に部隊をおき、崖下を通る道を監視し攻撃できるようにしたものです。 攻防戦のときは、攻めてくる敵部隊を、崖上から矢や投石で、また岩や丸太を落として攻撃しました。
 現在は樹木が多く茂っていますが、かつては、周辺は刈り払われ見通しがきき、広く監視攻撃ができるようにしてあったと思われます。
 崖壁にはいくつか穴があけられやぐらが創られています。防衛のために切岸とやぐらとは違和感を感じますが、創られた時期が違うのかもしれません。 これらのやぐらは、墓として創られたり、石仏や石塔が置かれたりしたものでしょう。
 切岸の沿って道を進むと、先程分岐した道を合流し、さらに上りが続きます。すると切り通された部分が現れます。
 
    
       
大仏切通 画像 大仏切通 画像 大仏切通 画像  
切岸 と やぐら 切岸 と やぐら  大仏切通   
大仏切通 
大仏切通     

<<切通された部分 (置き石、平場、郭 など)>>
 両側の岩壁を削り道幅狭く切通されています。さらに通行を制約するため攻撃部隊の進行を妨げるための置き石があります。道の両岩壁の上には平場、さらに郭も設けられていましたが、現在は樹木が茂り分かりづらくなっています。
 攻防戦のおりは、さらに柵や逆茂木も設けられました。敵方侵攻部隊は、狭い崖の道で侵攻先頭を抑えられ身動きも取れなくなります。そこを両側の平場から矢や槍、投石で攻撃を加え打ち取ります。大部隊を持っても容易に突破できなかったといいます。
 さらに先へ進むと、やがて、道は緩やかな変哲のない山道になります。
    
       
大仏切通 画像 大仏切通 画像 大仏切通 画像  
大仏切通  大仏切通  大仏切通   
 
     
       
大仏切通 画像 大仏切通 画像 大仏切通 画像  
大仏切通  大仏切通  大仏切通   
 
     

<<住友常盤住宅分岐 から 大仏ハイキングコース分岐 まで>>
 緩やかになった山道を進むと分岐になり、左(東側)からの道があります。この道はすぐに「住友常盤住宅」の住宅地に出てします。この分岐に標識が立っていて、進行方向に「高徳院(大仏)」、上って来た方向に「火の見下」とあります。
 大仏方向になお進むと、急な上り階段になります。上りきると、今度は急な下り階段になります。下りの途中に分岐があり左方向から道が合流してきます。この左方向からの道は「大仏ハイキングコース」です。この分岐には標識があり、左(東)方向に「源氏山公園・銭洗弁財天 1.8km」、進行方向に「長谷駅 900m」「高徳院(大仏) 400m」、戻る方向に「大仏切通 150m」とあります。
 この大仏切通への階段の道(下りてきた階段)は、平成の中頃に整備されたものです。それまでは、土がむき出しの滑りやすい急坂で安全に通行できる状態ではありませんでした。通行が制限されていた期間もありました。現在は安全に通行できるようになりました。
    
       
大仏切通 画像 大仏切通 画像 大仏切通 画像  
大仏切通 大仏切通  大仏切通   
(「火の見下」へ向かうハイカー) 
住友常盤住宅分岐にある標識  階段の急坂   

<<大仏ハイキングコース分岐 から 「大仏坂」バス停 へ>>
 高徳院(大仏)方向にさらに下ると、今度は右(西)方向に分岐する道があります。こちらは、長谷配水池の脇を通り、その先で極楽寺方面の谷(やつ)の住宅地の道に出ます。極楽寺方面へに向うことができます。
 高徳院(大仏)方面へさらに階段を下りていきます。この辺りから、新道(県道32号藤沢鎌倉線)を右下に見下ろすようになります。もとの古道「大仏切通」の道はこの辺りから新道の上を横切り反対側の山腹に伸びていましたが、新道の開削で古道のこの部分は削られ消失しました。
 階段を下りきると、新道に出ます。すぐ先が「大仏坂」バス停です。高徳院(大仏)門前までは300m、江ノ電長谷駅までは700mほどです。
    
       
大仏切通 画像 大仏切通 画像 大仏切通 画像  
大仏ハイキングコース分岐 標識 大仏ハイキングコース分岐 急坂階段 大仏切通・大仏ハイキングコース 入り口   
大仏切通 
大仏切通   大仏切通    

  (記 2024/-/-)     
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