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極楽寺坂切通し(ごくらくじさかきりどおし)は,鎌倉七切通し(鎌倉七つ口)の一つで,極楽寺の開山忍性上人によって切り開かれたといいます。 また,新田義貞の鎌倉攻めの激戦の地になったことでも知られています。 ここでは極楽寺坂切通しとその周辺を紹介。 江ノ島電鉄の極楽寺駅から,極楽寺坂切通しを経て由比ヶ浜方面へ向かいます。アジサイの咲く成就院の参道は見所です。 < 左-写真 > 極楽寺坂切通しの道 |
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この周辺への交通は,江ノ島電鉄(江ノ電)利用するのがよいでしょう。 江ノ島電鉄の駅で、最寄は”極楽寺駅”です。駅前が極楽寺です。また,極楽寺坂切通しも駅のあたりがその端にあたります。 江ノ島電鉄の前後の駅,”長谷駅”や”稲村ヶ崎駅”も組み合わせるコースによって選ぶことができます。 |
極楽寺駅 ( ごくらくじえき ) 江ノ島電鉄 |
江ノ島電鉄(江ノ電)の極楽寺駅は、極楽寺の山門前に創られた駅です。 極楽寺駅の改札を出て、鎌倉方向に坂道をのぼると、左手に線路をまたぐ陸橋があります。この陸橋を渡ったところが極楽寺の山門です。陸橋を渡らずにそのまま進むと、極楽寺坂切通しとなります。 このあたりは、江ノ島電鉄(江ノ電)を観るのにもいいところです。 陸橋の上や、極楽寺の山門前から観る江ノ電の車両が景色に映えます。 |
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霊鷲山 極楽寺 ( ごくらくじ ) 鎌倉 |
極楽寺は,北条重時が忍性上人(にんしょうしょうにん)を開山とし正元元年(1259)に創建しました。 本堂に,清涼寺式釈迦如来立像(重文)が安置されています。 往時は,七堂伽藍を備え、塔頭49院を数える大寺であったといいます。 江ノ島電鉄の極楽寺駅の改札から,上り坂を鎌倉方面に向かうとすぐに左手線路越しに極楽寺の茅葺の山門が見えます。 |
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<忍性上人(にんしょうしょうにん)> 忍性上人は、極楽寺を拠点にし貧民を救済したといいます。境内の本堂前にはその折に使われたと伝えられる製薬鉢が置かれています。 当時の,海岸沿いの前浜あたり(今の由比ヶ浜)は農民,漁民が住んでいて貧しい人が多かったといいます。また材木座は,商業の中心地でした。この辺りに対して極楽寺は多くの権益と権利を持っていたのです。そこから得られる多くの富を,施薬院,悲田院などの医療活動,極楽寺坂切通しの土木工事などに使ったとされています。 貧民救済は,極楽寺の地域運営であり、行政活動の一環であったようです。 |
成就院 ( じょうじゅいん ) 普明山法立寺成就院 |
縁起によると、弘法大師空海が江ノ島に行く途中に,この地で護摩法を修したといいます。 その後、北条泰時が辰斎を開山として建立しました。 本尊は不動明王で、文覚上人荒行像を有します。 境内の参道から観る由比ヶ浜の景色がすばらしく,特にアジサイの花が咲くころ多くの人が訪れます。 極楽寺方面から,切通しの道に入るとすぐに右側に成就院境内へ上る石段が見えます |
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星月夜の井(星の井) と 虚空蔵堂 |
鎌倉十井の1つです。昔、この井の中に昼間も星の影が見えたことから,この名がついたといいます。 奈良時代の名僧・行基は,井戸から出てきた光り輝く石を虚空蔵菩薩の化身と思い,お堂を建ててまつったという言い伝えもあります。 井の横にある石段の上が虚空蔵堂です。 極楽寺方面から来ますと,成就院を過ぎてすぐの左側道沿いです。 |
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御霊神社 (ごりょうじんじゃ) 鎌倉 鎌倉市坂ノ下 |
鎌倉付近の平氏5家(大庭,梶原,長尾,村岡,鎌倉)の祖を祀る神社の五霊神社が御霊神社になり,やがて鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)だけを祀るようになったと伝えられています。
鎌倉権五郎景政は,後三年の役で,源義家に従い武勇をあげた武将です。 極楽寺坂方面からですと,星の井を過ぎて70〜80Mほどのところの左の路地(角に力餅屋がある)を入っていくと,江の島電鉄の踏み切り越しに,御霊神社の鳥居と社殿が見えてきます。 |
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鎌倉権五郎景政の命日が9月18日とされています。この例祭日には面掛け行列という珍しい行事がおこなわれます。(県指定 無形文化財) これは,特異なお面をつけた十人衆が古いいでたちで町を練り歩くものです。その中に”福禄寿(七福神の一つ)”が含まれていて,これにちなんで境内に”福禄寿”が安置されています。
鎌倉江の島七福神の1つになっています。 |
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