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横浜市泉区 いずみ中央付近には
"
泉小次郎親衡 伝承地"
といわれる所が在ります。以下に紹介します。 それ以外の,和泉川沿いの文化財,史跡などに関しては " 和泉川に沿って" のページをご覧下さい。 |
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泉小次郎親衡(いずみこじろうちかひら)
は,鎌倉時代の武士で,信濃の住人といわれています。 二代将軍頼家を幽閉し幕府の実権を握った北条氏を討つべき,小次郎親衡は,頼家の遺児千寿を擁し旗揚げを計画しました。しかし露見し,多くの御家人が捕らえられました。 親衡は,この地でその計画の準備を行い,居城を築いたといわれています。しかし,それを裏付ける確たる物や文献は現在のところ見つかってないようです。 親衡の計画が露見したのは,健保元年(1213)2月とされています。計画に加わった御家人の中には,和田義盛の子や甥がいて,それが元で,5月に義盛は北条打倒の兵を挙げました。和田合戦です。 義盛は敗れ,北条氏の権力基盤はますます強化されていきました。 親衡と千寿は,計画露見後,姿をくらまし,諸国を転々とした後,川越で出家したと伝えられています。 |
泉中央公園 ( いずみ中央 付近 ) |
和泉川東側の台地の端を利用した中世の城郭跡。 現在,公園として整備されました。 伝承によると,泉小次郎親衡 の居城であったとされています。 ここからは,板碑や五輪塔など出土物していますが,これらは鎌倉時代後期から南北朝のころのものとみられ,泉小次郎親衡 の時代とは少し差があるようです。 公園東側は”学校道”に面し,土塁跡,その内側に空掘跡があり,形状から二重掘であったと推定されます。 ( 東側 土塁跡,空掘跡 写真 ) 公園南側には,空掘跡があります。 ( 南側 空掘跡 写真 ) |
泉小次郎 馬洗いの池 ( 泉中央公園 内 ) |
泉小次郎親衡 が馬を洗ったと伝えられる池。 泉中央公園内,西側,台地から一段下がった所にあります。 一年中水が枯れることがなく,昔から”雨乞い”が行われていた場所です。 |
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長福寺 ( いずみ中央 付近 ) |
長福寺は和泉川の左岸,泉中央公園の北西すぐのところにあります。 泉小次郎親衡 の創建道場であったと伝えられています。 山門脇には,銅版でできた解説板があります。 そこには,長福寺の歴史と泉小次郎親衡 の伝承が記してあります。 長福寺の境内はきれいに手入れがされて,季節の花を楽しむ事が出来ます。 ( 長福寺 境内 写真 ) |
須賀神社 ( いずみ中央 付近 ) |
長福寺に隣接して須賀神社があります。 泉小次郎親衡 が城を築いたとき,その鎮守神として祀ったのが当社のはじまりと伝えられています。 |
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神明社 ( いずみ中央 付近 ) |
泉小次郎親衡 が城を築いたとき,その鬼門除として勧請したと伝えられています。
社の横を江戸時代には,”柏尾通り大山道”とその支道ともいえる”戸塚道”が通っていました。 社脇には,江戸〜明治初期の頃の石塔があり,当時の道標になっています。 |
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滝前不動 ( いずみ中央 付近 ) |
泉中央公園から200〜mほど離れた,和泉川の対岸に不動滝があります。 泉小次郎親衡 が戦で流した血を滝の水で洗ったという話も伝わっています。 泉小次郎親衡 の守尊である不動滝は,男滝(高さ1.7m, 幅0.1m)と,女滝(高さ2.0m, 幅0.1m)があったということですが,女滝は最近の豪雨で埋っってしまったとのことです。 残った男滝も上の台地の宅地化が進んだせいでしょうか,枯れていることが多いようです。 滝の横脇にあるお堂には「泉小次郎親衡守尊」と書かれた石塔と不動内が収められています。 |
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宝心寺 ( 和泉川 右岸 いずみ中央から四ッ谷方面 ) |
泉小次郎親衡 は菩提寺としてここに”泉龍寺”を建立したと伝えられています。 親衡の末孫が絶え,荒れ果て見る影もなくなったのを,(1652)に当時の地頭の松平勝左衛門昌吉が宝心寺を建立したということです。 |
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