鎌倉 (旧鎌倉郡) の歴史を訪ねて    
    鎌倉    十二所    を歩く   ( 光触寺 から 五大堂明王院 へ )       
   十二所 光触寺 塩なめ地蔵 頬焼阿弥陀 五大堂明王院 大江広元邸跡   
    
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 十二所(じゅうにそ)は、金沢街道(六浦道)の奥まったところで(鎌倉から見て),小規模な寺院や史跡が点在しています。鎌倉観光の点から見るとかなり地味な感を受けます。また交通の便も良いとは言えず、訪れる観光の方は少ないようです。
 朝比奈切通しと組み合わせて訪れるのが良いでしょう。
 ここでは、十二所神社から光触寺,大江広元邸跡,五大堂明王院と鎌倉駅方向に向かって歩いてみます。


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  朝比奈切通し 十二所 付近
 
 
  << コース と アプローチ >>    
    朝比奈切通しを十二所方面に抜けるコースを取って,帰りにに立ち寄り散策してみるのがよいでしょう。

 
         ○ 朝比奈(バス停)へ
     ・神奈川中央交通バス (京急)金沢八景駅〜(JR)大船駅
     ・京急バス (京急)金沢八景駅〜(JR)鎌倉駅
       それぞれの駅から,該当の行き先のバスに乗車し,”(バス停)朝比奈”にて下車してください。
 
         ○ 十二所神社(バス停)・十二所(バス停)・ハイランド入口(バス停)へ
     ・京急バス (京急)金沢八景駅〜(JR)鎌倉駅
       それぞれの駅から,該当の行き先のバスに乗車し,それぞれのバス停にて下車してください。
 




 十二所神社(じゅうにそじんじゃ)    鎌倉 十二所        
    
 金沢街道沿いの山沿の静かな小さな神社です。

 もとは、熊野十二所権現社といわれ、光触寺の境内の鎮守として祀られていたといいます。後に村人によってこの地に移されたといいます。
     十二所神社 画像
十二所神社    
 

 岩蔵山 光触寺(こうそくじ)     頬焼阿弥陀,塩なめ地蔵のお寺      
    
 一遍知真(1239〜1289)を開山として開かれた時宗の寺院です。
 本尊は,重要文化財の阿弥陀三尊像です。これは頬焼阿弥陀とも呼ばれています。
 山門前左側の石標や板標にも「頬焼阿弥陀」の大きな文字があります。

 < 頬焼阿弥陀 の伝承 >
 昔,”町の局”という女性がおり,所有していた運慶作の阿弥陀如来をお堂に安置していました。建保三年(1215),局の家にいた阿弥陀仏を信仰していた方戈法師に盗みの疑いがかけられました。局は戒めのため方戈の頬に焼印を押したところ,その晩,夢枕に阿弥陀仏があらわれました。その尊像の頬に焼印があり,方戈には焼印がなかったのです。驚いた局は,阿弥陀仏が身代わりになり、日ごろ信仰している方戈を救ったのだと感じ,一寺を建立して尊像を本尊にしたといいます。
     光触寺 画像
光触寺    山門
 
   光触寺の山門を入ると、左手に何十体もの石仏が並んでいます。
 季節の花々や,木々の緑を背景にして,趣のある石仏群です。
光触寺 画像
光触寺    山門から境内
 
  塩なめ地蔵 画像
光触寺    塩なめ地蔵
 
    境内にある小さな地蔵堂に並ぶ地蔵は,塩なめ地蔵と呼ばれています。
 もとは,金沢街道にあったものです。
 昔,六浦の塩売りが,鎌倉に商売に行くとき,この地蔵に初穂に塩をそなえると,帰りにはなくなっていたといいます。そこで,なくなったのは地蔵様がなめたからだと思ったといいます。そこで塩なめ地蔵と呼ばれるようになったということです。
 

 元禄年間(1688〜1703)再建といわれる本堂に,頬焼き阿弥陀とよばれる運慶(うんけい)作の阿弥陀如来像,安阿弥(あんあみ)作の観音菩薩像,湛慶(たんけい)作の勢至菩薩像を安置しています。
     光触寺 画像
光触寺    本堂
 

 大江広元(おおえひろもと)邸跡            
    
 住宅地の一角に「大江広元邸後」の石碑があります。まわりはすっかり住宅地になっています。

  大江広元は京都の公家で優れた行政能力を持っていました。頼朝(よりとも)に招かれ鎌倉幕府の基礎を固めた人物です。
 大江広元の子孫の内には,毛利氏を名乗る者がありました。そして西国に下り,有力な戦国大名になりました。
     大江広元邸跡 画像
大江広元邸跡    の碑
 

 五大堂明王院  (ごだいどうみょうおういん)       
    
   飯盛山五大堂明王院と号します。本尊は五大不動明王です。
 鎌倉四代将軍九条(藤原)頼経(よりつね)が建立ました。開山は鶴岡八幡宮の別当定豪(じょうごう)です。京都仁和寺末で,「鬼門除け不動」といわれています。

 茅葺の本堂が緑の樹木に囲まれた静かなお寺です。
五大堂明王院 画像
五大堂明王院    
 
  五大堂明王院 画像
五大堂明王院    本堂
 
    三寅(幼名)は,左大臣九条道家(みちいえ)の子で、8歳のとき嘉禄元年(1225),元服して九条頼経と改名しました。翌年将軍職となりましたが,執権北条経時(つねとき)により寛政2年(1244),将軍職を子の頼嗣(九条頼嗣(よりつぐ))に譲ることを強いられ,その翌年27歳で出家しました。
 

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