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十二所(じゅうにそ)は、金沢街道(六浦道)の奥まったところで(鎌倉から見て),小規模な寺院や史跡が点在しています。鎌倉観光の点から見るとかなり地味な感を受けます。また交通の便も良いとは言えず、訪れる観光の方は少ないようです。 朝比奈切通しと組み合わせて訪れるのが良いでしょう。 ここでは、十二所神社から光触寺,大江広元邸跡,五大堂明王院と鎌倉駅方向に向かって歩いてみます。 |
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<< コース と アプローチ >> |
朝比奈切通しを十二所方面に抜けるコースを取って,帰りにに立ち寄り散策してみるのがよいでしょう。
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○ 朝比奈(バス停)へ ・神奈川中央交通バス (京急)金沢八景駅〜(JR)大船駅 ・京急バス (京急)金沢八景駅〜(JR)鎌倉駅 それぞれの駅から,該当の行き先のバスに乗車し,”(バス停)朝比奈”にて下車してください。 |
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○ 十二所神社(バス停)・十二所(バス停)・ハイランド入口(バス停)へ ・京急バス (京急)金沢八景駅〜(JR)鎌倉駅 それぞれの駅から,該当の行き先のバスに乗車し,それぞれのバス停にて下車してください。 |
十二所神社(じゅうにそじんじゃ) 鎌倉 十二所 |
金沢街道沿いの山沿の静かな小さな神社です。
もとは、熊野十二所権現社といわれ、光触寺の境内の鎮守として祀られていたといいます。後に村人によってこの地に移されたといいます。 |
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岩蔵山 光触寺(こうそくじ) 頬焼阿弥陀,塩なめ地蔵のお寺 |
光触寺の山門を入ると、左手に何十体もの石仏が並んでいます。
季節の花々や,木々の緑を背景にして,趣のある石仏群です。 |
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境内にある小さな地蔵堂に並ぶ地蔵は,塩なめ地蔵と呼ばれています。
もとは,金沢街道にあったものです。 昔,六浦の塩売りが,鎌倉に商売に行くとき,この地蔵に初穂に塩をそなえると,帰りにはなくなっていたといいます。そこで,なくなったのは地蔵様がなめたからだと思ったといいます。そこで塩なめ地蔵と呼ばれるようになったということです。 |
元禄年間(1688〜1703)再建といわれる本堂に,頬焼き阿弥陀とよばれる運慶(うんけい)作の阿弥陀如来像,安阿弥(あんあみ)作の観音菩薩像,湛慶(たんけい)作の勢至菩薩像を安置しています。 |
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大江広元(おおえひろもと)邸跡 |
住宅地の一角に「大江広元邸後」の石碑があります。まわりはすっかり住宅地になっています。
大江広元は京都の公家で優れた行政能力を持っていました。頼朝(よりとも)に招かれ鎌倉幕府の基礎を固めた人物です。 大江広元の子孫の内には,毛利氏を名乗る者がありました。そして西国に下り,有力な戦国大名になりました。 |
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五大堂明王院 (ごだいどうみょうおういん) |
飯盛山五大堂明王院と号します。本尊は五大不動明王です。 鎌倉四代将軍九条(藤原)頼経(よりつね)が建立ました。開山は鶴岡八幡宮の別当定豪(じょうごう)です。京都仁和寺末で,「鬼門除け不動」といわれています。 茅葺の本堂が緑の樹木に囲まれた静かなお寺です。 |
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三寅(幼名)は,左大臣九条道家(みちいえ)の子で、8歳のとき嘉禄元年(1225),元服して九条頼経と改名しました。翌年将軍職となりましたが,執権北条経時(つねとき)により寛政2年(1244),将軍職を子の頼嗣(九条頼嗣(よりつぐ))に譲ることを強いられ,その翌年27歳で出家しました。
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