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巨福山 建長寺(こふくさん けんちょうじ)は鎌倉五山の第一位の巨刹です。 執権北条時頼が,寛元4年(12462),宋からきた蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)(大覚禅師(だいがくぜんし))を開山として,巨福呂坂上の地獄谷の地蔵堂を中心に寺を建立しました。完成したのが建長5年(1253)でその年号を寺名としました。日本初の禅林です。 創建当時の伽藍の配置は明らかでありませんが,現在,総門から三門・仏殿・法堂(はっとう)・方丈が一直線に並び宋風禅寺の様式を残しています。 最盛期は塔頭(たっちゅう)49院を数えました。応永21年(1414)焼失し,江戸期に再興しましたが,関東大震災でほとんどの建物が崩壊しました。その後復興し現在に至っています。 |
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総門(そうもん) ( 鎌倉 建長寺 ) |
現在の門は1943年に京都の般船三昧院(はんじゅうさんまいいん)から移築したものです。「巨福門(こふくもん)」ともいいます。宋の禅僧 一山一寧(いちさんいちねい)の筆と伝えられる「巨福山」の額を掲げています。”巨”の字には一点が加えられ百貫の値が添えられたといい,この点は百貫点といわれています。
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山門(さんもん) ( 鎌倉 建長寺 ) |
総門を抜けると正面に立つ重層の門が山門(さんもん)です。三解脱門のことで三門とも言います。 1775年,万拙和尚(ばんせつおしょう)が浄財を募り再建し,その時狸が助けたとの伝説から名狸の三門とも言います。 |
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仏殿 (ぶつでん) (鎌倉 建長寺) |
本尊の地蔵菩薩臓像を安置しています。重層寄棟造りの建物で,1647年に徳川家の菩提寺だった東京,芝の増上寺より移築したものです。 |
仏殿 |
仏殿 |
地蔵菩薩像 | ||||
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法堂 (はっとう) (鎌倉 建長寺) |
仏殿の後ろすぐの大きな建物が法堂です。1814年に再建されたものです。法堂は僧侶が修行を行う道場のことですが,現在の建長寺の道場は西来庵(せいらいあん)に移されています。 現在の本尊は千手観音菩薩像です。その手前に置かれている釈迦尊像はパキスタンから寄贈されたものです。 天井の雲龍図は小泉淳作(こいずみじゅんさく)画伯によって描かれました。 |
法堂 |
釈迦尊像と千手観音菩薩像 |
天井画 雲龍図 | ||||
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唐門 (からもん) ・ 方丈(ほうじょう) ・ 庭園 (鎌倉 建長寺) |
唐門は,仏殿と同じく芝の増上寺から移築されたものです。勅使門とも言います。 唐門を入ると方丈があります。竜王殿(りゅうおうでん)ともいい,総門と同じく京都の般船三昧院(はんじゅうさんまいいん)から移築されたものです。 方丈の裏は,方丈庭園が広がっています。方丈に上がり裏手にまわり見ることができます。禅式庭園で,夢窓国師の作と伝えられていますが,江戸期に改修されています。 |
唐門 |
方丈 |
庭園 | ||||
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鐘楼(しょうろう) ・ 梵鐘(ぼんしょう) (鎌倉 建長寺) |
総門から山門に向かって右手に茅葺の鐘楼があり,国宝の梵鐘が下がっています。 梵鐘は建長7年(1255)北条時頼が物部重光(もののべしげみつ)に造らせたもので,建長寺創建当時の貴重なものです。 |
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半僧坊(はんぞうぼう) から 勝上嶽展望台へ (鎌倉 建長寺) |
建長寺境内の最も奥,勝上嶽の中腹に建長寺鎮守の半僧坊大権現が祭られています。 明治23年(1890)当時の住職貫道和尚(かんどうおしょう)が,静岡奥浜名の方広寺から勧請しました。 |
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半僧坊から続く石段の道は勝上嶽展望台へさらに天園ハイキングコースに続いています。
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円応寺(えんのうじ) と 閻魔堂 (鎌倉 巨福呂谷) |
建長寺の総門を過ぎ鎌倉街道を鎌倉方向に僅かに進むと右手に石段が見えます。ここが新居山円応寺です。かつてはこの辺りも建長寺の境内でした。 円応寺は,かつては由比ヶ浜の近くにあり,この地に移ってきました。 本堂の閻魔堂には本尊の運慶作と伝えられる閻魔大王坐像を中心に周りに閻魔十王像が置かれています。 幾つかの仏像は鎌倉国宝館に展示されています。 |
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