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腰越は鎌倉市の西はしに位置し,藤沢市江ノ島に隣接した漁港の町です。
腰越にある満福寺は,源義経が腰越状を書いた所として知られています。 |
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龍護山 満福寺(まんぷくじ) 鎌倉 |
開山は行基(668〜749),中興の開山は高範と伝えられています。本尊は薬師如来像です。千手観音像(東国八十四番本尊),阿弥陀如来像も安置してあります。
本寺は,源義経(1159〜1189)が腰越状を書いたところとされ,知られています。 寺には,弁慶が書いたといわれている”腰越状の下書き”が保存されています。 また,境内には,弁慶が墨をするため水を汲んだという硯池や弁慶の腰掛石があります。 |
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<<源義経と腰越状>>
源義経は、兄の源頼朝(後に鎌倉幕府を開き,初代将軍となった)の挙兵に参じ鎌倉に入りました。その後,頼朝の命で京に上り源義仲(木曾義仲)を討ち,さらに平家と戦い追討し勝利しました。 その功を後白河法皇に認められ,信任を得,検非違使,左衛門少尉となりました。しかしそれは兄頼朝の許可を得ておらず,それにより頼朝の怒りをかいました。 戦いに勝利した義経は,鎌倉に戻ろうとして腰越まできました。しかし,頼朝は義経に対し怒りをあらわにし,鎌倉に入ることを許しませんでした。そこで,義経はこの地(腰越)に留まり,頼朝に気持ちを伝え許しを請う手紙を書きました。それが腰越状と呼ばれる書状です。 鎌倉時代の腰越は,当時の鎌倉の町からはだいぶ離れたところです。義経は鎌倉の町に近づくことも許されなかったのでしょう。 義経は書状を大江広元(頼朝の家臣)に託しました。しかし頼朝には届かなかったといいます。そして義経はしかたなく京へ戻っていきました。 <<江ノ電の踏み切りから境内へ>> 満福寺の境内へは江ノ電の踏切を渡って入ります。この踏み切りの遮断機は門前の石段の途中にかかっています。ということは,江ノ電の軌道は満福寺の境内の一部を走っているということなのでしょうか? <<源義経公慰霊碑と弁慶の腰掛石>> 本堂の前に源義経公慰霊碑その左に弁慶の腰掛石があります。 <<源義経公慰霊碑と弁慶の手玉石>> 本堂の前に源義経公慰霊碑その右には弁慶の手玉石があります。 |
満福寺 江ノ電の踏み切りから境内 | 満福寺 源義経公慰霊碑と弁慶の腰掛石 | 満福寺 源義経公慰霊碑と弁慶の手玉石 | ||||
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<<本堂,庫裏へ>>
本堂脇から本堂と庫裏の中に入り拝観することができます。拝観料を払って入ってみましょう。 <<腰越状の下書き>> 弁慶が書いたといわれる”腰越状”の下書き(複製?)が展示されています。江戸期あたりの複製と推測されています。 <<お守り,お土産 他>> 資料,お土産,お守り等の販売もしているようです。いろいろありました。 写真にある電話機,ノスタルジックでいい感じ,でもプッシュ式! そのわきに,茶房「義経庵(ぎけいあん)」のポスターが! 境内内,本堂のあるところよりさらに石段を上った高台にあるレンストラン。 かな? シラス丼(腰越・江ノ島の名物)がメニューにあるらしい。 <<襖絵(本堂内)>> 本堂の襖には,源義経と弁慶の物語が襖絵に描かれています。 鎌倉彫りだそうです。 |
満福寺 腰越状 | 満福寺 庫裏 売店 | 満福寺 本堂内襖絵 | ||||
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満福寺 本堂内襖絵 | 満福寺 本堂内襖絵 | 満福寺 本堂内襖絵 | ||||
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