藤沢の昔 さんぽ   
              御霊神社 (ごりょうじんじゃ) 藤沢市宮前、村岡             
    (  鎌倉権五郎景政 平良文  旗立山 )   
    
welcome
    


 藤沢市宮前(村岡)の御霊神社は相模国にいくつもある御霊神社の本宮です。
 この地は平良文(村岡良文),鎌倉権五郎景政ゆかりの地です。
 
     もどる     すすむ    ismiloco トップへ   泉区の歴史 indexへ     



<< 宮前 御霊神社 >>

 鳥居をくぐると長い階段があり,それを上っていくと社殿があります。 
<< 芭蕉 の 句碑 >>

 鳥居をくぐったすぐのところに大きなタブノキ(宮前御霊神社保存樹林)があり,その根元に芭蕉の句碑があります。
「 梅が香りに 
  のっと日の出る
  山路かな 」

 
 拡大写真   拡大写真   
         
<< 折笹矢竹稲荷 と 七面宮 >>

御霊神社の社殿のすぐ脇に 折笹矢竹稲荷(写真では左)と七面宮(写真では右)が並んだあります。
<< 兜松 への 道しるべ >>

 兜松へ200mと道しるべにありますが,兜松は枯死したためもう見ることは出来ません。
 この道しるべの方向に進むと鎌倉古道に出ます。
 
  拡大写真    
         
<< 御霊神社裏参道 と 鎌倉古道 >>

御霊神社裏参道と鎌倉古道の合流地点に壊れかけた案内板があります。
左の道が裏参道で御霊神社の社殿の裏に出ます。
<< 旗立山 >>

 この先が旗立山です。案内板の示す方に行くと私有地になって立ち入り禁止になっています。
 
 案内板写真   案内板写真   
           





  << 宮前(村岡) 御霊神社 ( ごりょうじんじゃ ) >>

 御霊神社(宮前、村岡)は相模国(さがみのくに)にいくつもある御霊神社の本宮といわれています。平安期中頃、平良文(たいらのよしふみ)が関東に下ったおり、村岡の地(現藤沢市宮前)に京の御霊宮(早良(さわら)親王の霊)を勧請し戦勝祈願をしたのが始まりといいます。
 京の御霊宮は古くからの怨霊信仰をおこなっていますが、相模の国の御霊神社には京風の怨霊信仰の形態や風習は伝わっていません。関係は薄いと考えられています。
 また相模国の御霊神社の共通の主神は鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ;(後記))です。「権五郎さま」が「ごりょうさま」になり,やがて御霊神社になったとの説も伝えられています。それらは、後に鎌倉党の祖である鎌倉権五郎景政を祀る神社に変貌していったからと思われます。
 相模国にいくつもある他の御霊神社は、その後、鎌倉党の諸氏が自らが支配する領地に鎌倉党の祖である鎌倉権五郎景政を祀る御霊神社を鎮守として勧請し、創建していったものと考えられます。
(鎌倉党 ーー 平安期末頃に相模国大庭郷周辺に勢力を持った武士集団で鎌倉権五郎景政を祖とする、およそ、大庭(大場)、懐島、俣野、長尾、さらに 村岡、鎌倉、梶原を名のる諸氏が含まれます。)
(大場郷 ーー 現在の藤沢市とその周辺を広く含む地域)

 境内に入ると,解説を刻んだ石碑があります。以下のように記されています。


  御祭神 本殿五座
  崇道天皇 光仁天皇第二皇子早良親王
  権五郎景政
  葛原親王
  高見王
  高望王

   境内副社
  十二天王 疱瘡神 笹折矢竹稲荷 七面宮

   祭日 毎年九月十八日

   由来沿革
  御祭神崇道天皇は桓武天皇が御宇延暦十二
  年五月現在の京都市に御霊宮として祀り給い
  其の後村岡に五郎良文公が住し天慶三年
  に勧請し戦勝祈願をなしたるを初めとす
  のち鎌倉権五郎景政を合せ祀り二柱たりしが北
  条時頼の命により 葛原親王 高見王 高望王
  の三柱を加え県下に十三の分社あり
  その後村岡五ヶ村総鎮守として現在に至っている 」
 


  << 平良文 ( 村岡良文 ) >>

 平良文(たいらのよしふみ)(村岡良文)は、平安時代の武士で、桓武平氏の一支流で高望王(たかもちおう)の子にあたります。なお、承平・天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん;(935-941))のとき東国で乱を起こした平将門(たいらのまさかど)は平良文の甥であり、高望王の孫です。
 平良文は承平・天慶の乱(935-941)のころ、鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)を任じられ、東国の乱を鎮めるため下り鎌倉郡村岡(一説では、武蔵国大里郡(現 埼玉県内))に入ったといいます。
 一説には、良文は「平将門征伐に大いに軍功を立てた」ともありますが、史実ではないようです。

 その後、良文は村岡に居館を構え、荘園を開き東国各地に勢力を広げました。やがて、その子孫は繁栄しいわゆる関東八平氏(三浦,梶原,長尾,大庭,畠山,千葉,上総,土肥))になったといいます。
 良文が居館を構えたといわれる所は、現在「村岡城址公園」のある辺りと思われます。この地で村岡氏を名のり、のち子孫は館を宮前の南側の古舘(こたて)の地に移し、一族はそこに住みつづけたといいます。

 なお、宮前という地名は、江戸時代に、ここ御霊神社が村岡郷五ヵ村の総鎮守であったためこの地をを宮ノ前村といったことに由するといいます。

 (承平・天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん;(935-941)) ーー 平安時代中期に起きた、関東での平将門の乱(たいらのまさかどのらん;承平5年(935))と瀬戸内海での藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん;天慶2年(939))のこと)


<< 鎌倉権五郎景政 と 「折笹矢竹稲荷」 >>

 鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)(平景正(たいらのかげまさ))は,平良文の子孫といわれています(他説もあります)。一代前の景成の時から鎌倉氏を名のったといいます。
 権五郎景政は,源義家(みなもとのよしいえ)に従って後三年の役(1083-87)に活躍した武士で,金沢の柵の戦いにわずか十六才で敵の大軍と戦い右目(文献によっては左目ともあります)に矢を受けました。それを見た味方の三浦の平太郎為継が土足で景政の顔を踏んで矢を抜こうとしたところ,景政は仰向けのまま為継の鎧の草ずりをつかみ,刀を抜いて刺そうとしました。驚いた為継に対して「弓矢にあたって死ぬのは武士の望むところだが,生きながら足で顔を踏まれるは恥辱である。」と言ったといいます。これには勇猛で名をはせた為継も舌をまいたといいます。
 矢を受けたとき,景政はそのまま抜かずに矢を射った鳥海弥三郎を討ち取ったといいます。矢を抜いても心身痛みを感じず,それを御霊神社のご加護と社の側にその矢を刺したところ,根づき青葉を茂らせたといいます。その矢笹竹の茂った地に稲荷を勧請したといいます。それが「折笹矢竹稲荷」です。 ( または 「笹折矢竹稲荷」 )

 その後、二十年ほど景政の名は史上に現れませんが、のち相模国に姿を現しました。大庭郷に落ち着き、重税に耐えかね土地を離れ浮浪していた多くの民を招き入れ荒地の開墾を始めました。その懇田が大庭郷周辺の荘園(しょうえん)や御厨(みくりや)を造り、のちの鎌倉党を支えました。

<<鎌倉党と大庭郷の開発・開墾と御霊神社>>
 大庭郷周辺を開発・開墾してできた懇田は伊勢神宮に寄進され大庭御厨(おおばみくりや:伊勢神宮の所領)が成立しました(永久4年(1116))。(御厨(みくりや):開発した懇田などを有力な寺社に寄進し不輸・不入の権利を得て開発主は実質的な領主に治まり、寄進した懇田は寺社の所領となり御厨と呼ばれた。)
 大庭御厨等の諸郷は分給され景政の子孫に引き継がれました。かれらはそれぞれ、大庭(大場)、懐島、俣野、長尾 などを名のりました。  鎌倉党とは平安期末頃に相模国大庭郷周辺に勢力を持った武士集団で、およそ、大庭(大場)、懐島、俣野、長尾、さらに 村岡、鎌倉、梶原を名のる諸氏が含まれます。
 鎌倉党の諸氏は、それぞれの所領に、その地の鎮守として、一族の租を祀る御霊神社を創建し祀ったと考えられます。また大庭御厨成立以後も鎌倉党の一族による開発・開墾は続けられ、その地にも同じように御霊神社が創建され祀られていったと考えられます。



<< 兜松 と 七面宮 >>

 権五郎景政は,後三年の役で源義家に従い戦功をたて,戦勝を祈願した宮前の御霊神社にお礼の参拝をしたといいます。そのときの印に,塚に兜を埋め松を植えたといいます。その塚が兜山,その松が兜松と呼ばれるものです。(現在の神戸製鋼の敷地内)
 兜山には七面宮がありましたが,破損したため1854年に御霊神社の境内に移されたといいます。
 また兜松は昭和二十二年に枯死したため現在は見ることが出来ません。



<< 御霊神社裏参道 と 鎌倉古道 >>

 境内にある「兜松」の道しるべにしたがうと,御霊神社裏参道を辿ることになります。裏山の反対側に出ると鎌倉古道に合流します。
 鎌倉古道はこの数十メートル程だけ裏山とともに残っていて,その先は両方向とも工場や宅地になっています。
 平安〜鎌倉期にはこの辺りは重要な交通の要所だったのでしょう。



<< 旗立山 と 源頼義(みなもとのよりよし),源義家(みなもとのよしいえ) >>

 御霊神社の裏参道から北東側の小高い山は「旗立山」と呼ばれています。
 前九年の役(1051-62)の出陣に際し,源頼義はこの山に白旗を立て軍勢を集めたといわれています。また,後三年の役(1083-87)のときはその子義家が同じ事をしたといわれています。
 現在「旗立山」は私有地になっていて入ることは出来ません。

<<前九年の役(1051-62)・後三年の役(1083-87)>>
 前九年の役 ーー 陸奥国で有力豪族の安倍氏が起こした乱、源頼義(みなもとのよりよし)とその子、源義家(みなもとのよしいえ)によって鎮圧された。清原氏の清原武則の参戦が鎮圧の功をなした。
 後三年の役 ーー 前九年の役ののち、勢力を増した清原氏内で争いが起こり、それに源義家が介入した。乱が収まった後、朝廷は一族内の私的な争いとして恩賞を出さなかった。そこで義家は私財を投げ打って従った武士に恩賞を与えたという。



     もどる     すすむ    ismiloco トップへ   泉区の歴史 indexへ   このページの 上へ