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源頼朝が鎌倉幕府を開いたとき,幕府を置いたのは,鶴岡八幡宮の東側すぐの所で,その場所は 大蔵幕府 とよばれています。 その後,鎌倉期の間,幕府のおかれた地は二度移転されました。 一度目の移転では,数100mほど南の地に移され,そこは宇都宮辻子幕府 とよばれています。二度目に移転された場所は,少し北方向に戻った所で,若宮大路幕府 とよばれています。 こちらでは,初めに幕府が置かれた地,大蔵幕府跡とその周辺を紹介します。 |
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畠山重忠(はたけやましげただ) 邸 跡 から 大蔵幕府跡へ ( 鶴岡八幡宮 東鳥居 前 ) |
鶴岡八幡宮や幕府の周りには,幕府の有力な御家人の屋敷がありました。 鶴岡八幡宮の東鳥居の前には「畠山重忠邸跡の碑」が建っています。 畠山重忠は頼朝の側近で,鎌倉幕府初期の有力な御家人です。頼朝の亡きあと,北条時政の策謀により武蔵野国 二俣川で討ち死にしました。詳しくは「二俣川合戦の地」のページを参照してください。 鶴岡八幡宮の東鳥居前から大蔵幕府跡へ向かいます。 横浜国大付属小・中学校の敷地に沿って進み,その敷地の過ぎたあたりが大蔵幕府の西側の端になります。 |
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大蔵幕府跡 (おおくらばくふあと) 源氏3代の幕府の地 |
頼朝は大倉の地に屋敷をかまえました。 やがて頼朝は征夷大将軍に任ぜられ,その敷地内に大御所・小御所・常御所・寝殿・侍所・門柱所などが建てられ,源氏3代(約45年間)の間の武家政治の中核を果たした大蔵(大倉)幕府となりました。 大蔵幕府の敷地は,東西約270m,南北約220mと推定され,東西南北に門が設けられていたといわれています。現在,西御門の碑,東御門の碑が建てられています。また清泉小学校の南西の端には大蔵幕府跡の碑があります。 北条執権の時代になると,幕府は移転され,宇都宮辻子幕府 となり,二度目の移転で 若宮大路幕府となりました。 |
大蔵幕府跡 の碑 |
西御門 の碑 |
東御門 の碑 | ||||
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源頼朝の墓(みなもとのよりとものはか) 白旗神社 ・ 源頼朝屋敷 跡 ・ 法華堂 跡 |
大蔵幕府の敷地内の北側に頼朝の邸があったと思われています。現在そこには白旗神社があり,法華堂跡の碑が建てられています。 白旗神社の鳥居前の石段を上ると,源頼朝の墓があります。 法華堂は頼朝の持仏を祀ったところで,頼朝の死後に廟所にされました。 |
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大江広元(おおえひろもと)の墓 と 三浦(みうら)一族の墓 |
白旗神社前から山の端に沿った狭い道を東方向へ進むとすぐ左手に石段を見ることができます。これを上ったところに三浦一族の墓といわれるやぐらがあります。 三浦一族は宝治合戦で北条と戦い敗れ,三浦泰村以下一族郎党500余人がここで自刃したといいます。 その場所から,右手にさらに上へ上る石段があります。上るとやぐらが3つ並んであります。このやぐらは大江広元・島津忠久・毛利季光の墓といわれています。 大江広元は京都の公家で優れた行政能力を持っていました。頼朝に招かれ鎌倉幕府の基礎を固めた人物です。 大江広元の子孫は毛利氏を名乗りました。そして西国に下り,有力な戦国大名になりました。 |
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満光山 来迎寺 (まんこうざん らいごうじ) と 太平寺 (たいへいじ) 跡 西御門から来迎寺へ |
満光山 来迎寺は,時宗のお寺で一遍上人によって創建されたと伝えられています。 鎌倉三十三ヶ所札所の第五番です。 このお寺には有名な三体の仏像が安置されています。 かつて頼朝の持仏堂であった法華堂に祀られていた如意輪観世音はここに移され札所本尊となっています。それから衣の裾が台座に重なる地蔵菩薩坐像。足腰の痛みがなくなると信じられている抜陀婆螺尊者像です。 |
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来迎寺の境内への石段の上り口の左に「太平寺跡の碑」が建っています。 太平寺があったのは,来迎寺の左手に道なりに僅かに上った横浜国立大のテニスコートがあるあたりです。 太平寺は,円覚寺が創建された後に建立され,鎌倉尼五山の一位になった大寺でした。 |
荏柄天神社 (えがらてんじんしゃ) 大蔵幕府の鬼門鎮護 |
頼朝が大倉の地に幕府を開いたとき鬼門の方向に鬼門鎮護のために建てたのが荏柄天神社です。 菅原道真を祀っています。 |
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東御門の碑から東方向に進むとお宮通りに出ます。そのわずか手前の左に絵柄天神社があります。
お宮通りは,鎌倉宮(大塔宮)への道です。こちらから二階堂や紅葉谷方面の史跡を訪れることができます。 |
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