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二階堂川に沿って谷を奥に向かうお宮通りは,鎌倉宮(かまくらぐう)へ向かう道です。鎌倉宮は大塔宮(おおとうのみや、 ※鎌倉では「だいとうのみや」とよばれることが多い)ともいわれています。 鎌倉宮は、祭神に大塔宮護良親王(おおとうのみやもりながしんのう、 ※「もりよししんのう」とよばれることもある」)を祀る神社です。 鎌倉宮は、護良親王が幽閉されていた東光寺(廃寺)の跡に創建されました。 |
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鎌倉宮(かまくらぐう) (大塔宮(おおとうのみうや、だいとうのみや)) 鎌倉 |
大塔宮 鳥居 | 大塔宮 境内(拝殿前から) | お宮通りから大塔宮へ | ||||
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鎌倉宮(かまくらぐう)は、明治2年(1869)、明治天皇の勅令によって東光寺跡に建立されました。祭神に大塔宮護良親王(おおとうのみやもりながしんのう、「もりよししんのう」ともいう)を祀っていることから大塔宮(おおとうのみや)ともよばれています。鎌倉では「だいとうのみや」とよばれることも多いです。
東光寺(現 鎌倉宮)は、護良親王が幽閉され、殺害された所とされています。 <<鎌倉宮まで (JR鎌倉駅から鶴岡八幡宮を経て鎌倉宮へ向かう)>> JR鎌倉駅から鎌倉宮へ向かいます。まず鶴岡八幡宮へ向かいます。八幡宮の東鳥居を出て、大倉幕府跡を東へ向かうとお宮通りにでます。左に曲がると進む先に鎌倉宮の鳥居が見えてきます。お宮通りは金沢街道の岐れ路から鎌倉宮へ向かうまっすぐな道です。 <<護良親王(もりながしんのう、「もりよししんのう」ともいう>> 護良親王は後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の皇子で11歳で出家し後に天台座主(てんだいざす;天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗の諸末寺を総監する役職)となりました。最初の門室が法勝寺(ほっしょうじ)大塔(おおとう)のほとりにあったので「大塔宮」と称されました。 元寇の乱が起きると、父の後醍醐天皇を援け鎌倉幕府軍(北条方)と戦い、元寇2年(1332)に還俗し護良親王(もりながしんのう)を名のりました。 建武の新政がはじまる(1333)と征夷大将軍となりましたが、足利尊氏(あしかがたかうじ)と対立し解任されました。そして捉えられ鎌倉に送られ東光寺(現 鎌倉宮)に幽閉されました。足利直義(ただよし、尊氏の弟)の監視下におかれました。 親王の幽閉はおよそ9ヶ月間続き、やがて建武2年(1335)中先代の乱がおきました。北条高時(鎌倉幕府14代執権)の遺児時行が、鎌倉へ攻め上り占拠したのです。直義はあわて鎌倉を逃げ出しましたが、そのおり臣下の淵野辺伊賀守義博(ふちのべいがのかみよしひろ)に皇子である親王の殺害を命じました。(時行が親王を奉じることを恐れたためと推測されます。) 親王は、現鎌倉宮の本殿裏の御構廟(おかまえどころ)のあたりで首を切られ、その首は藪に捨てられたといいます。 |
大塔宮 拝殿 | 大塔宮 拝殿 | 大塔宮 拝殿 | ||||
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<<本殿、拝殿から拝観路>>
大鳥居から境内に入ると正面の石段の上に拝殿が見えます。本殿は拝殿の背後にあります。 拝殿の右手には村上社、社務所があります。左には「拝観受付」があります。「拝観路」は本殿の左側(向かって)から背後をまわり戻ってきて右手が出口になります。 拝観料を払い拝観路に入ります。本殿・拝殿を側面から眺めるとその様子がよく判ります。 |
大塔宮 拝観受付 | 大塔宮 拝観券 | 大塔宮 拝観路出口 | ||||
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<<土牢(つちろう、どろう)>>
拝観路を本殿背後まですすむと大塔宮御坐所となり、その先の山復に護良親王が幽閉されていたという土牢があります。実際の親王が幽閉されていた所は定かでなく、おそらく東光寺の寺院の一室であったろうと考えられています。なお、幽閉中親王には身辺のお世話をする南の御方(みなみのおかた;藤原保藤の娘)という女性が付き添っていたといいます。 <<御構廟(おかまえどころ)、鎌倉宮の碑など>> 土牢を過ぎると「神苑」とよばれる開けた場所に出ます。親王が殺害されその首が藪に捨てられたとされる辺りです。鎌倉宮の碑、御構廟(おかまえどころ;親王の首塚)、などがあります。 藪に捨てられた親王の首は、親王に付き添っていた南の御方によって拾い上げられ、のちに理智光院(理智光寺;廃寺)の僧に手によって葬礼が行われたといいます。 先に進むと、献茶の塔(保利宗久歌碑)、明治天皇ゆかりの五ヶ条の御誓文・教育勅語の碑などがあります。そのさらに先に宝物殿があります <<宝物殿>> 護良親王ゆかりの品々、明治天皇ゆかりの品々が展示されています。 護良親王一代記、馬上像、馬具や武具など。 宝物殿を過ぎると、拝観路出口となります。 |
大塔宮 本殿 | 大塔宮 土牢 | 大塔宮 鎌倉宮の碑 | ||||
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<<村上社、撫で身代わり>>
拝殿右側、拝観路の出口近くに村上社があります。護良親王の忠臣村上義光を祀っている境内社です。 元寇3年(1333)吉野城落城のおり、「これまで」と覚悟を決めた親王の元へ村上義光が身に十六本の矢を突き立てた姿で駆けつけ、親王の錦の鎧を着用し「我こそは、大塔宮護良親王ぞ、汝ら腹を切るときの手本とせよ」と告げ腹を掻き切り壮絶な最後を遂げたといいます。親王はその間に落ちのびたといいます。親王の身代わりとなった村上義光を祀っています。 |
村上社、撫で身代わり | 村上社・撫で身代わり解説板 | |||||
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<<護良親王の墓について>>
鎌倉には、護良親王の墓といわれる場所が2ヶ所あります。 一つは理智光寺跡にあります。東光寺近くで殺害された親王の首は南の御方によって拾い上げられ、のちに近くの理智光院(理智光寺;廃寺)の僧の手によって葬礼が行われたといいます。現理智光寺跡の石段を上った山上に葬られたという墓があります。 もう一つは妙法寺の境内奥の山上にあります。護良親王の遺児楞厳丸(りょうごんまる、後の日叡(にちえい))が妙法寺を創建し父親王の墓(供養等)を境内に建てたといいます。 |
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