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扇ヶ谷(おうぎがやつ)は,旧跡・名所の多くある谷(やつ)です。 JR鎌倉駅付近から,谷の奥に向かって,寿福寺,焼刃稲荷,英勝寺,阿仏尼の墓(伝承),海蔵寺と訪ねてみます。 谷の奥まったところからは,化粧坂を経て源氏山公園へ上ることもできます。 |
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<< コース >> |
○ 鎌倉駅西口 〜 寿福寺 ・ 英勝寺 ( 約 600m ) | ||
○ 寿福寺総門 〜 北条正子の墓 ・ 源実朝の墓 〜 焼刀稲荷 ( 約 400m ) | ||
○ 焼刀稲荷 〜 寿福寺 ・ 英勝寺 ( 約 200m ) | ||
○ 寿福寺 ・ 英勝寺 〜 阿仏尼の墓 ( 約 200m ) | ||
○ 阿仏尼の墓 〜 海蔵寺 ( 約 500m ) |
寿福寺 (じゅふくじ) JR鎌倉駅から寿福寺へ |
寿福寺は鎌倉五山の第三位で,亀谷山金剛寿福禅寺(きこくさんこんごうじゅふくぜんじ)といいます。 正治2年(1200),源頼義の邸跡に北条正子の祈願により栄西を開山として建立されました。 JR鎌倉駅 からですと,西口から今小路を北鎌倉方向に進みましょう。600m程で左手に総門が見えてきます。 総門に向かって,左側には八坂神社,右側には英勝寺が隣接しています。 総門を入ると気持ちの良い参道が山門まで続いています。その先,山門から仏殿は普段は非公開です。正月とゴールデンウィークには公開されます。 |
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山門脇から左に続く路は裏の墓地に続いています。 墓地の深まったところには,やぐらがいくつもあります。その中に 北条正子 の墓,源実朝 の墓 と伝えられているものがあります。 |
焼刃稲荷 (やきばいなり) 寿福寺境内から焼刃稲荷 へ |
寿福寺の墓地から階段を下りてくると,右手に小さな洞門があります。そこをぬけると住宅地になります。道なりに歩くと先ほど歩いた今小路に出るのですが,その手前の道脇に小さな稲荷社があります。焼刃稲荷,または正宗稲荷と呼ばれているものです。 刀鍛冶で知られる正宗の屋敷に祀られていた稲荷が屋敷と共に興廃してしまい,江戸期にここに再建されました。 相州正宗の造る刀は名刀として珍重されました。 正宗の屋敷はこの近くに在ったといわれています。また佐助トンネルに東側にある正宗の井の近くにあったともいわれています。 |
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英勝寺 (えいしょうじ) 今小路から英勝寺 へ |
今小路から寿福寺まで戻ります。僅かに北鎌倉方向に尼寺,東光山英勝寺があります。 英勝寺は,扇谷上杉家に仕え,後に江戸城を築いた太田道灌(おおたどうかん)の屋敷跡に建てられました。 道灌から4代目の康資に於梶(おかじ)という娘がいました。於梶は徳川家康の側室になり,関が原の合戦にも騎馬でお供しました。そして戦に勝つということから於勝(おかつ)と改名されました。 於勝の方は,お万の方の子で後の水戸藩の藩主徳川頼房の養母となりました。家康が亡くなると出家して英勝院を名のり,英勝寺を創設しました。以後,英勝寺は水戸徳川家ゆかりの寺院となりました。 山門付近は現在(2007)工事中で通ることができません。境内への拝観にはさらに北鎌倉方向に進んだところにある通用門から入ります。(要 参観料)。 境内に残る建築物は,江戸初期のもので室町末期桃山系統を象徴する様式で他の鎌倉諸山とは趣を異にしています。 |
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拡大写真
(十二支を彫る蟇股をめぐらしてある仏殿) |
拡大写真
(袴腰付き楼閣形式の鐘楼) |
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(唐門と祠堂(祠堂は風雨よけの囲いの中)) |
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(伝) 阿仏尼(あぶつに) の墓 英勝寺 から 海蔵寺 へ |
横須賀線ぞいの道をさら北鎌倉方向に進むと,左手,稲荷社の手前に阿仏尼の墓と伝えられているやぐらがあります。 十六夜日記(いざよいにっき)の作者として知られる阿仏尼は,藤原為家(藤原定家の子)との間の子 為相(ためすけ)の相続争い(為家の正室の子との間で争われた)のため鎌倉にきました。そして極楽寺の近くの月影ヶ谷に住んだといわれています。 為相は冷泉家(れいぜいけ)を創始し,冷泉為相(れいぜいためすけ)を名のりました。冷泉家は今も続く歌道の系統を継ぐ公家です。 藤原定家(ふじわらのさだいえ,”ふじわらのていか”とよまれることも多い) --- 平安末期から鎌倉期に活躍した歌人で,勅撰集『新古今和歌集』&『新勅撰和歌集』を撰進したことで知られています。 |
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扇谷山 海蔵寺 (せんこくさん かいぞうじ) 扇ヶ谷 から 海蔵寺 |
扇ヶ谷の奥に向かう道を進みます。途中,左に化粧坂への道と分岐しますが,そのまま進みます。 海蔵寺は,お庭のきれいな,季節の花の楽しめるお寺です。 境内に入ると,正面に本堂,左手に仏殿(薬師堂)があります。 まず,本堂をお参りしてから,本堂裏のお庭を見にいきましょう。 禅宗らしい山水を形にした大変きれいなお庭です。 |
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仏殿(薬師堂)は,安永5年(1776)ころに,浄智寺から移されたものと伝えられています。
堂内に,啼薬師(なきやくし)とよばれる薬師如来像(やくしにょらいぞう)が祀られています。胎内に,仏面が納められているといいます。 この仏面は,裏山から毎夜のように赤子の泣き声が聞こえてくるので,その場所の土中を掘ったところ出てきたといわれているものです。 |
十六の井戸 (じゅうろくのいど) 海蔵寺境内から十六の井戸 へ |
海蔵寺の仏殿の手前の左側に十六の井戸に向かう道があります。これをたどります。
岩壁に掘られた岩窟の中に十六の穴が掘られ,清らかな水をたたえています。 |
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岩窟内の正面には,観音像が掘られ,その下には弘法大師像が置かれています。
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底抜けの井(そこねけのい) 海蔵寺 山門 前 |
鎌倉十井の一つです。 中世の武将の娘で千代能という娘がいました。ある日,千代能がここに水を汲みに来たとき水桶の底が抜けたため,「千代能がいただく桶の底抜けて,水たまらねば月もやどらず」と,歌ったことからこの名がついたといわれています。 心の底が抜けて,わだかまりも解け,心が開けたという意味の歌です。 |
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