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東慶寺(とうけいじ)は松岡山東慶総持禅寺(しょうこうざんとうけいそうじぜんじ)といいます。明治の初めまでは女性が住職を努める尼寺で、鎌倉尼五山の第二位でした。現存する唯一の鎌倉尼五山です。江戸期末まで縁切寺法(えんきりじほう)を引き継いでいて、縁切り寺ともかけこみ寺ともいわれました。
境内奥の墓地には多くの著名人や文人が眠ることでも知られています。 |
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<< アプローチ >> |
(JR北鎌倉駅)より) |
JR北鎌倉駅改札口から「主要地方道21号横浜鎌倉線」を鎌倉方向へ200mほどの右手、 徒歩5分ほど |
松岡山東慶総持禅寺 (しょうこうざんとうけいそうじぜんじ) (臨済宗円覚寺派) (鎌倉市山ノ内) |
東慶寺 山門 | 山門へ石段 東慶寺 | 東慶寺 解説板 | ||||
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弘安八年(1285)の開創といいます。開山は覚山志道尼(かくざんしどうに;覚山尼(かくざんに))、開基はその子の北条貞時(ほうじょうさだとき)です。
覚山尼は北条時宗(ほうじょうときむね)の室で、貞時の母です。夫の時宗が前年の弘安七年(1284)に死去し、それに先立ち出家し覚山志道を名のりました。また女性の救済に意を注ぎ、子の貞時が執権のとき朝廷に願い出て縁切寺法(えんきりじほう)の勅許を得たと伝えられています。 その後、五世住持に用堂尼(ようどうに)がなりました。用堂尼は後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の皇女で、弟の大塔宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう:もりながしんのう)の菩提を弔うために入寺しました。以後この地は、「鎌倉御所」あるいは「松岡御所」と称されるようになりました。 室町時代には、鎌倉尼五山第二位に列することになりました。 その後、二十世住持に天秀法泰尼(てんしゅうほうたいに;天秀尼(てんしゅうに))がなりました。天秀尼は豊臣秀頼(とよとみひでより)の娘で、元和元年(1615)5月7日大阪城落城のおり捕らえられましたが、秀頼の正室で徳川家康の孫娘の千姫が養女とし助命されました。そして七歳にて東慶寺に入寺しました。以後、この寺と徳川将軍家との関係は深く、開創以来の縁切寺法も江戸時代を通して続いたとされます。 明治四年(1871)の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により縁切寺法は利用されなくなりました。 明治の初めに臨済宗円覚寺派の男僧の寺になりました。 <<縁切寺法(えんきりじほう)について>> 東慶寺を創始した覚山尼が朝廷に願い出て縁切寺法の勅許を得たとされています。 二十世住持天秀法泰尼が入寺においてに縁切寺法の存続を徳川将軍家に願い出て許されたといいます。それよりこの寺と徳川総軍家との関係は深く、縁切寺法も江戸時代を通して続いたとされます。 残っている記録や文書は元文三年(1738)の寺法離縁状が最古のもので、それ以前の縁切寺法の実態や、縁切り寺、かけこみ寺としての実態については不詳です。 江戸期末までの封建制度の社会では、妻の側から離婚請求は出来ませんでした。そんな女性に救済の道を提供したのが縁切寺法です。寺には離縁の手続きを行うための付属の役所が設けられ、離縁を願う女性が寺にかけこみ願いでれば、役所がその処理にあたりました。役所はまず夫側との離婚協議仲裁に入り「内済離縁」をすすめます。夫側が応じないなどでそれが成立しない場合は強制的に離縁を行う「寺法離縁」をすすめます。「寺法離縁」になると、夫に強制的に離縁状を書かせるなどし離縁が成立します。女性は3年間の年季奉公の「寺入り」をすることになります。 明治初期、廃仏毀釈により縁切寺法は利用されなくなりました。明治六年(1873)、明治政府により女性からの離婚請求権が認められました。その後、縁切寺法は正式に廃止になりました。 |
鐘楼 東慶寺 | 梵鐘 東慶寺 | 田村俊子の記念碑 | ||||
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<<山門まで>>
JR北鎌倉駅より主要地方道「21号横浜鎌倉線」を鎌倉方向へ200mほどの右手、道路に面して東慶寺の表門が建ちます。左手の門柱には「東慶寺」と、右手の門柱には「松ヶ岡」と刻んであります。左右の門柱の間から向こう側に石段がありその上に茅葺きの山門が見えます。 山門脇に拝観受付がありますので、ここで拝観料を払い山門をくぐります。 <<鐘楼(しょうろう)と梵鐘(ぼんしょう)>> 山門を入ると、左手に茅葺きの鐘楼(しょうろう)があります。ここにある梵鐘(ぼんしょう)観応(かんのう)元年(1350)銘は、元は材木座の補陀洛寺(ふだらくじ)のものでした。本来の東慶寺の梵鐘は、戦国時代の豊臣秀吉の小田原攻め(天正八年(1590))のおり奪われ、現在は伊豆の国市の本立寺(ほんりゅうじ)に現存しています。元徳四年(1332)銘で、北条貞時夫人の円海成尼の寄進といいます。 <<田村俊子の記念碑>> 鐘楼の手前に 作家田村俊子(明治17年 - 昭和20年)の記念碑が建ちます。高さ90センチの自然石に自作の小説「女作家」の一部を刻んだものです。境内奥の墓地に墓があります。 <<山門から参道、泰平殿(本堂)へ 庫裏、書院、寒雲亭(茶室)など>> 山門から正面に参道がのびています。左手は、鐘楼を過ぎると寒雲亭(茶室:(非公開))が建ちます。寒雲亭は昭和35年に材木座から移築された建物です。右手には、塀が続き、塀の向こう側(内側)に庫裏、書院(非公開)、本堂と建ち並びます。本堂近くまで行くと、塀に門が設けられてあり、そこから本堂前庭に入り本堂までいくことができます。 <<四賀光子歌碑>> 本堂前庭への門前(参道側)傍に四賀光子の東慶寺開山覚山尼讃歌歌碑が建ちます。四賀光子(明治18年ー昭和51年)は長野県生まれの歌人で、後年、鎌倉扇ガ谷の山荘で没年まで過ごしました。境内奥の墓地に夫妻の墓があります。 |
境内参道 東慶寺 | 書院 東慶寺 | 四賀光子歌碑 | ||||
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<<泰平殿(本堂)と本堂前庭 書院、水月堂など>>
参道から前庭に入ると、正面奥に泰平殿と呼ばれる本堂が建ちます。本尊は寄木造り玉眼入りの釈迦如来坐像(しゃかにょらいざぞう)です。傍段には覚山尼、用堂尼、天秀尼の像が安置されています。 本堂に向かい右側には書院(非公開)、左側には水月堂(特別拝観(要予約)ができます)が建ちます。水月堂は昭和34年に加賀前田家の持仏堂を移築したものです。 水月堂には木造水月観音菩薩半跏像(すいげつかんのんぼさつはんかぞう;(県重文))が安置してあります。水面に映る月を眺める姿を表しています。十四世紀南北朝時代の作といわれています。拝観(特別拝観)は時間が決められていて予約が必要です。 予約等に関しては東慶寺の公式ホームページ( http://www.tokeiji.com )をご覧ください。 前庭、参道からの門の傍に大きな石塔が建ちます。これは植村宗光師の供養塔です。宗光は日露戦争で没した僧侶です。 |
本堂前庭へ 東慶寺 | 本堂 東慶寺 | 本堂内部 東慶寺 | ||||
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書院 東慶寺 | 植村宗光師の供養塔 東慶寺 |
<<金仏 菖蒲畑 百連社(非公開)>>
参道に戻り、進むとその先正面に露座の如来像が建ちます。金仏と呼ばれる仏像です。金仏の背後は菖蒲畑になっています。その菖蒲畑のあたりに旧東慶寺仏殿がありました。金仏の前を左前方に進むとと百連舎(非公開)がありますが、道は閉鎖されています。金仏の右手後方には松岡宝蔵(まつがおかほうぞう)が建ちます。参道は金仏の前で右に迂回するように続き松岡宝蔵の前を通ります。 <<旧東慶寺仏殿(国重文)について>> 山門から入り参道の正面、金仏の背後の菖蒲畑あたりに旧東慶寺仏殿がありました。 旧仏殿は、現在、横浜市本牧の三渓園に現存します。明治四十年(1907)に移築されました。建立は、寛永十一年(1634)十月仏殿建立の棟札が残ることからその頃かそれ以前であろうと思われています。室町期の禅宗(ぜんしゅう)様式の特色を残す建物です(建立は江戸初期と思われています)。 なお、三溪園は生糸貿易により財を成した実業家 原富太郎によって造園された庭園で、明治39年(1906)5月1日より一般に公開されました。園内には京都や鎌倉などから移築された歴史的な建造物が保存、配置されています。 |
金仏 東慶寺 | 金仏と松岡宝蔵 東慶寺 | 百連舎 東慶寺 | ||||
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<<松岡宝蔵(まつがおかほうぞう) (月曜休館)>>
寺伝来の仏像、蒔絵、絵画、古文書など多くの文化財を収蔵、展示しています。また特別展などを開催しています。 (代表的な収蔵品) 古文書は昔の寺法や縁切関係の実態や様子を知ることができる貴重な資料です。(国重文) 蒔絵類が多くあります。初音蒔絵火取母(はつねまきえひとりも;(国重文))は、香炉(こうろ)で、木胎の胴部全面に梨地を施した研出(とぎだし)蒔絵で松竹梅に鴬の図柄の中に、「はつね」「きか」「せよ」の文字を松梅の間に配しています。源氏物語の初音の巻の「年月を松に曳かれてふる人に今日鴬の初音聞かせよ」の歌をとりいれたもので、室町中期のものといわれています。 聖観音菩薩立像(しょうかんのんぼさつりつぞう;(国重文))は西御門(にしみかど)にあった鎌倉尼五山第一位太平寺の本尊だったものです。鎌倉地方特有の衣に土紋装飾(どもんそうしょく)が施された珍しいもので、鎌倉時代後期の作とみられます。この像は室町時代末に安房の里見義弘が鎌倉に攻め入ったおり、安房に持ち去ったものです。それがもとで、太平寺は廃絶にいたったといういわれがあります。のち鎌倉に戻され当寺に安置されました。 (太平寺の廃絶と青岳尼(せいがくに)について 次のページへ ーー> 西御門から回春院(地獄谷)へ ) |
松岡宝蔵 東慶寺 | 参道 東慶寺 | 参道 境内裏墓地へ | ||||
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<<境内奥の墓地へ向かう>>
参道をさらに進むと境内奥の墓地に至ります。松岡宝蔵をすぎ道が左にカーブするあたりの右手に石段があります。上り口には「後醍醐天皇皇女 用堂女王墓」と刻まれた石標が建ちます。この石段を上ると開けたところに寺の歴代の住職や尼僧の墓が並びます。参道を左手に進むと傾斜地に檀家の墓が並びます。こちらには文人や著名人の墓が多くあります。 <<用堂尼、覚山尼、天秀尼、釈宗演 他 の墓>> 上り口に「後醍醐天皇皇女 用堂女王墓」と刻まれた石標が建つ石段を上ります。 石段を上ってすぐ右手に用堂尼の墓があります。やぐら内に五輪塔があります。その左側に小さめのやぐら内にも五輪塔があります。こちらは覚山尼の墓です。その手前に石塔や卵塔が並びますが、その中でひときわ大きな卵塔が天秀尼の墓です。さらに左手奥に釈宗演の墓があります。如来像が達ちその背後の岩崖のくぼみに卵塔が置かれています。まわりには歴代の住職や尼僧の墓が並びます。 |
墓地石段 東慶寺 | 用堂尼の墓 | |||
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覚山尼の墓 | 天秀尼の墓 | 釈宗演の墓 他 | ||||
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<<夏目漱石参禅百年記念碑>>
山門の手前、表門を入った参道の右側に夏目漱石参禅百年記念碑が建ちます。 明治の文豪 夏目漱石は明治27年(1894)末から翌年1月7日まで円覚寺帰源院に止宿し参禅しました。それを記念して当記念碑が建てられました(平成六年(1994)12月9日)。漱石はこの時の参禅体験をもとに小説「門」を書きました。 |
夏目漱石参禅百年記念碑 | 夏目漱石参禅百年記念碑 解説 | |||
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<<松岡文庫(まつがおかぶんこ)(非公開)>>
境内の東側裏山に松岡文庫が建ちます。松岡文庫は鈴木大拙(すずきだいせつ)が昭和16年に設立した仏教研究の財団法人です。仏教の経典や研究資料を多く収蔵しています。 |
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