泉区の昔 さんぽ   
            二俣川合戦の地             
   畠山重忠討死 の地   旭区 鶴ヶ峰 付近 ( 武蔵国 )   
    
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 相模鉄道 鶴ヶ峰駅 付近 は,鎌倉時代に畠山重忠が北条軍と戦い敗れた二俣川合戦があったところです。
 畠山重忠にゆかりの史跡が残されています。
 
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   横浜市 旭区 鶴ヶ峰 付近 
 
<< 二俣川 合戦 >> 

 鎌倉幕府を開いた源頼朝が亡くなったあと,北条時政は幕府の実権を握るため,有力御家人を次々謀殺,失脚させていきました。
 元久2年(1205)6月22日には,畠山重忠が武蔵国二俣川で討ち取られました。このときの戦いが”二俣川合戦”です。
 6月,由比ガ浜で謀反の騒ぎがありました。それは,時政が畠山一族を誘き寄せるために仕組んだ策謀でした。
 駆けつけた重忠の長子重保は,待ち構えていた三浦義村らによって殺害されました。
 鎌倉に参るように命を受けた重忠は次男の重秀と共に134騎を率いて,19日に居館の菅谷館( 埼玉県 嵐山 )を出発し,鎌倉に向けて中の道を進みました。
 一方,時政は,「畠山重忠が謀反を起こし,鎌倉に向け軍勢を進めている。これを向かい討て。」というように命を出ました。
 重忠は二俣川で,重保の死と,自分を討つために数千騎の北条軍が鎌倉を出発したことを知りました。
 重臣らは,一度菅谷に引き返し,軍を整えて北条方を迎え討つように進言しました。しかし,「しかすれば,我に陰謀ありと,無実が事実になり,永久に汚名を着る。」と言い,4時間におよぶ激戦の末,討ち死にしました。




<< 畠山重忠 >>  

 畠山氏は秩父氏(平氏)の嫡流で,重忠の父の重能のとき,畠山を名字にしました。
 重忠は,頼朝が挙兵した石橋山の合戦のときは,平氏方につき三浦氏を攻めました。
 石橋山の合戦で敗れた頼朝は安房に逃れ,上総,下総で軍勢を整えて武蔵に入ると,重忠はこれに参じ,以後, 頼朝に仕え,多くの合戦で先陣を勤めるなど,数多くの武勇を残しました。  
 また,雅の心を併せ持ち,情にも厚く,多くの人から信頼された武将であったといいます。
 頼朝に仕えるようになってから,菅谷( 埼玉県 嵐山町 )に居館を構えました。畠山氏の菅谷館址は,東武東上線の武蔵嵐山駅から近くにあります。





 畠山重忠公碑      ( 旭区 旭区役所 向かい )   
    
 二俣川合戦の激戦の地に建立されました。
「畠山重忠公没後750年を迎えた昭和30年6月に,鶴ヶ峰と埼玉県川本村( 現 川本町 ) の有志によって建立された。」 との説明があります。
 
      

 首塚, 首洗い井戸, さかさ矢竹, 片割れのしどめ    ( 旭区役所 付近 )     
    
 4時間あまりの激戦の末,重忠は愛甲三郎季隆の矢にあたり討ち取られました。
 重忠の首は,近くの帷子川の河原井戸で洗い,鎌倉に運ばれたと言われています。
 また,近くに塚を築き,そこに置かれた七重石塔の下に葬られたとも言われています。
 ”首塚” は,旭区役所うらの道路端に在ります。
 重忠の首を洗ったという ”首洗い井戸” は,川の流れが変わり今では見ることはできません。

 首塚から旭区役所庁舎にかけての辺りに, ”さかさ矢竹” が茂っていたといわれています。今は見ることはできません。
「重忠は討ち死にする間際に『我が心正しかれば,この矢に枝葉を生じ繁茂せよ。』と言い,矢を2本地面に突き刺した。それが根づき毎年2本ずつ増えて茂り続けた。」と言い伝えられています。

 首塚から六ツ塚にかけての辺りは,しどめ(草ボケ)が生える野でした。合戦のおり,軍馬に踏み砕かれ,その後 ”片割れのしどめ” が生えるようになったと言い伝えられています。今は見ることはできません。

   旭区役所うらの駐車場のすみに,以上のことを記した説明板が設置されています。写真を載せますので,読んでみてください。


    
( 首塚 --  拡大 写真 )

( 説明板 --  拡大 写真 )
 


 六ツ塚,  畠山重忠公霊場     ( 旭区 鶴ヶ峰 付近 )     
    
 討ち死にした畠山重忠以下134騎は六つに分け埋葬されました。それが六ツ塚です。
 今は,新しく立派な霊場が建てられています。(左 -- 写真)  写真では,中央の階段の右側にも塚を1つ見ることができます。
 付近には確かに6つの塚があります。右 -- 下 の写真は,その中でもっとも大きなものです。

 六つの塚の辺りには,新しいものですが,石碑,畠山重忠公の石像,仏像がいくつも建てられています。
 旭区役所によって建てられた,説明板があります。



    
( 重忠公霊場 --  拡大 写真 )

( 六ツ塚 --  拡大 写真 )
 

 駕籠塚      ( 旭区 鶴ヶ峰 鶴ヶ峰浄水場脇 )     
    
 畠山重忠の室である菊の前は,重忠を追って駆けつけ,この地でその最後を知りました。
 菊の前はそれを悲しみ,駕籠の中で自害したといいます。

 駕籠塚があるのは,鶴ヶ峰浄水場の脇です。六ツ塚からですと,急坂を上った鶴ヶ峰神社の裏手になります。富士山丹沢が望める高台にあります。
 駕籠塚の前には,ま新しい碑文が建立されています。

 菊の前が自刃したときに使ったと思われる懐剣が,近くの家( 二俣川の三沸寺の総代を務める氏宅 )に,代々『宝刀霊神』として祭られていると聞いています。( * -- 未確認ですが.... )



    
( 駕籠塚 --  拡大 写真 )

( 碑文 --  拡大 写真 )
 


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