|
|
鎌倉の材木座海岸にある和賀江嶋は現存する最古の築港遺跡です。鎌倉時代に築かれ、江戸時代まで使われていた築港です。
古道の小坪路は古くからの鎌倉から逗子・三浦方面への交通路でした。 小坪路沿いの正覚寺、住吉神社がある一帯は住吉城址です。 |
もどる | すすむ | 鎌倉と鎌倉郡の歴史 indexへ |
|
|
和賀江嶋(わかえじま)と材木座(ざいもくざ) 鎌倉 |
鎌倉の材木座海岸に和賀江嶋という築港遺跡が残っています。築港遺跡としては最古のものです。
築かれたのは、鎌倉時代の貞永元年(1232)、往阿弥陀仏(おうあみだぶつ)の発案で、執権北条泰時の助力で工事が行われ完成しました。その後、江戸時代まで利用されました。 飯島ヶ崎から弧状にのびる防波堤で舟繋ぎの石杭もありました。大きな根石を置き、その上に丸石を積み上げて造られたと思われます。石材は相模川、酒匂川、伊豆海岸から運ばれたものと思われます。 鎌倉時代の和賀江嶋には、宋からの貿易船も盛んに来航し、鎌倉の物流を支えました。そして材木座の周辺には魚座や米座などいくつもの座(座 ーー 商業権を独占する場、集団)が設けられ商業地域として栄えました。材木座という地名はそれが現在に残ったものです。 |
小坪路(こつぼみち) 鎌倉 |
古道の小坪路は、鎌倉から逗子、三浦方面へ向かう古くから利用されていた海岸沿いの道です。
鎌倉から逗子、三浦方面への古道は、他に名越切通しの道、小坪坂の道が推定されますが、小坪路はその中でも特に古くから利用されていたと思われます。 これらの古道は明治の初め頃まで利用されていました。明治になり名越トンネルや小坪トンネル等が開通しその役割を終えました。 |
材木座海岸から小坪方面を望む | 和賀江嶋の碑(材木座海岸) | 和賀江嶋解説板(材木座海岸) | ||||
|
小坪路 を歩く 材木座 飯島付近から住吉城址まで |
<<飯島バス停付近から小坪路へ向かう>>
飯島バス停付近から、小坪方面(小坪海岸トンネルの方向)へ向かいます。国道134のガード下をくぐると、右手に階段があり、その上に「和賀江嶋の碑」と「和賀江嶋の解説板」が設置してあります。この場所は和賀江嶋がよく見渡せます。 道路はこの先で小坪海岸トンネルに入りますが、その手前の右の狭い道を進みます。小坪路はこちらをたどります。 山腹と海岸に挟まれた狭い道です。右手の海岸、岩礁の上にも和賀江嶋の碑が立てられています。干潮時はこの辺から弧状にのびる和賀江嶋の形状がよく分かります。 この先、道の右手に六角の井があります。 |
和賀江嶋(干潮のとき) | 和賀江嶋の向こうに江ノ島を見る | 和賀江嶋の碑 | ||||
|
<<六角の井>>
鎌倉十井の一つです。井戸端が八角あり、そのうちの六角が鎌倉分、二角が小坪分といわれています。 伊豆大島に流されていた源為朝が鎌倉めがけて射た矢がここに落ちたという伝説があります。そのやじりは今も井戸の中だんにまつられているといいます。 <<小坪飯島公園から正覚寺へ>> 六角の井から左に曲げれば正覚寺ですが、一度まっすぐ海岸沿いの道を進み小坪飯島公園へ向かい、そこから正覚寺へ向かうことにします。 六角の井からの道はさらに狭まり、海岸に突き当たります。そこを左に折れると小坪飯島公園です。ここに水運の神を祀るという古い石の祠があります。 山側を見ると階段がありますので、それを上ります。わずかで開け、駐車場スペースがあるところにでます。その正面に正覚寺に上る階段が続いています。ここで右手に進むと金網のフェンス越しに石仏・石塔が並べられています。これらも古道の名残りでしょう。 正面の階段を上り、正覚寺へ入ります。 |
六角の井と小坪路 | 六角の井と石碑・解説板 | 六角の井 解説板 | ||||
|
||||||
|
||||||
六角の井 中を覗く | 小坪路 石仏・石塔 | 小坪路 水運の神を祀るという石の祠 | ||||
|
<<正覚寺>>
住吉山正覚寺の開山は然阿良忠(ねんありょうちゅう)です。然阿良忠が光明寺を開く前にとどまった地といわれています。本尊は阿弥陀如来です。 境内裏を進むと住吉神社へ行くことができます。境内が通れないときは、階段下から左の道を迂回してください。 |
小坪漁港 小坪路は左の谷あたり | 正覚寺へ上る階段 | 正覚寺 | ||||
|
<<住吉城址と住吉神社>>
正覚寺の裏へ回ると住吉神社があります。古びた長い石段を上ると社殿があります。この山一帯が住吉城があった場所と推定されています。住吉神社はその鎮守といいます。 社殿の右山腹には手彫りのトンネルがあり、城の機能の何かしらを果たしていたのかもしれません。トンネルの反対出口は頑丈なバリケードが設けられ通行できなくなっています。 住吉城は山城で、堀などもなく、自然の地形を城郭として防衛に活かしていました。いつ頃、だれにより築かれたかは不明です。 戦国時代の永正7年(1510)、北条早雲が住吉の古要害を取り立て城郭にしたといい、それ以前に城郭が存在していたことがうかがえます。 北条早雲の築城の後、三浦道寸がこの城を攻略し、さらに岡崎城(現 平塚市)に進出しました。 それを、今度は北条早雲の軍勢が攻めました。道寸は、岡崎城から弟の三浦道香が守っていた住吉城に敗走し、そこで早雲の軍勢と対峙しました。しかし、道寸、道香 兄弟は奮戦むなしく敗れ、道香は落城の直前、道寸たちを逃し、その後血路を開き自らも三浦に逃れようとしましたが、深手を負い逗子の延命寺にたどり着き力尽き自害しました。 その後、逃れた三浦道寸も滅亡しました。 |
住吉神社 | 住吉神社 | 住吉神社 境内トンネル入り口 | ||||
|
||||||
|
||||||
住吉神社 境内トンネル内部行き止まり | 住吉神社 境内トンネル内部 | 住吉神社 境内より相模湾を望む | ||||
|
もどる | すすむ | 鎌倉と鎌倉郡の歴史 indexへ | このページの 上へ |