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横根稲荷は,相模鉄道 いずみ野線 いずみ野駅 の 南東 台地上にあります。 ここには,巴御前が立ち寄って,井戸の水で化粧をしたとの言い伝えがあります。 その井戸は " 横根感念井戸 " と呼ばれています。 |
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<< 横根稲荷(よこねいなり) と 横根感念井戸(よこねかんねんいど) >>
横根稲荷 は相模鉄道 いずみ野線 いずみ野駅 から 南東 に徒歩10〜分 ほどの台地上にあります。 泉区の中では,特に標高の高い所で,境内の東隣にあったという富士塚には航空灯台が設置されていたこともあります( 現在は富士塚も航空灯台もありません )。 また,南西に視界が開け,裏手の高台からの夕景の 富士山 丹沢 大山 は,一見の価値があります。 桜の名所としても知られています。境内には,背の高い桜の木( 種類はなんだろぅ ? ? )が何本もあり,桜の時期にぜひ訪れたいものです。 また,巴御前(ともえごぜん)にまつわるこんな伝承があります。 「和田義盛(わだよしもり)の所に身を寄せていた巴御前は,和田合戦の後,信州に落ちて行きました。途中このあたりで夕暮れになったのでこの地で夜をあかしました。そして井戸の水で化粧をしました。その井戸は,それから感念井戸(かんねんいど)と呼ばれるようになりました。」 感念井戸は,最近発掘され修復されました。それまでは行方不明で,存在を疑う人もいました。 社殿は,最近の不審火で消失し,今は新しく立派なものになりました。 |
<< 巴御前(ともえごぜん) と 木曾義仲(きそよしなか) ( 源義仲 ) >>
義仲(源義仲)は武蔵野国にあった大蔵館 ( 現在 - - 埼玉県比企郡嵐山町 ) で生まれました。 2歳のとき,父の源義賢が,源義朝( 源義賢の兄 & 源頼朝の父 )とその子義平と戦い討ち取られました。 義仲と母の小枝御前は木曾へ逃れていきました。そして木曾に勢力を持っていた中原兼遠にかくまわれることになりました。 巴は,兼遠の娘として生まれ,駒王丸(義仲の幼名)を兄のように慕い育ちました。 やがて,二人は恋に落ちました。 巴は,色白で髪が長く,たぐいまれな美女であったといいます。また武芸に秀でて,たぐいまれな強弓を引き,刀を持たせては一人当千人,荒馬も乗りこなしたと伝えられています。 義仲は二十六歳で挙兵,その時,巴は二十三歳。 巴は義仲に従い,共に京を目指し北陸道を進軍しました。 倶利伽羅峠(くりからとうげ)の合戦では,迎える平家の軍10万に,義仲軍5万が挑み大勝しました。このとき,巴は義仲が7手に分けた軍勢のうちの1つを「女だてら」に率いて戦いました。 義仲はさらに進軍し京に入りましたが,その半年後,頼朝(よりとも)の命を受けた義経(よしつね),範頼(のりより)に敗れ討死します。 義仲は,従っていた巴に,「お前は女だから,落ちていけ。・・・・ 」と言い放ちました。巴はその言葉に従い,信濃に落ちていきました。 その後,世が静まると,巴は頼朝に召され,鎌倉に行き,和田義盛の妾になりました。 巴は,和田義盛の本拠地の三浦で30年ほどすごしました。 やがて,鎌倉政権は北条氏が実権を握るようになり,義盛は北条打倒の兵を挙げました(北条義時の策謀によるとの説が有力です)。和田合戦です。しかし,義盛は敗れ一族は滅亡しました。 この後の巴の足跡は定かではありません。「生まれ故郷の信濃に落ちていった。」 「倶利伽羅峠の合戦で共に戦った石黒太郎光弘を頼って北陸に落ちていき出家した。」 「三浦一族の影響が強い栢山(小田原市)に逃れた。」などの伝承があります。 ところで,北陸や信濃へ落ちていったのなら上の道を通ったでしょう。横根稲荷の伝承ともつじつまが合います。 |
<< 桜さく 横根稲荷 >>
横根稲荷の鳥居の左側には馬頭観音がいくつもあります。 以前,この辺りで,草競馬が行われていました。 |
<< 横根稲荷付近から 遠景 >>
横根稲荷 東側の台地から富士,丹沢,大山を望む |
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<< 横根感念井戸 >>
横根感念井戸 の前には(写真では左)石碑がおかれ,「巴御前ゆかりの 感念井戸」とあります。 後ろは,横根稲荷の社殿。 |
<< 横根稲荷 昭和30年頃 遠足の写真 >>
”中和田小学校 創立100周年記念誌”より 今の社殿より,ずいぶん小さかったみたいです。 |
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