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大町から材木座あたりは,商業で栄えたところです。鎌倉時代には,和賀江島の港から多くの物資が陸揚げされました。そしてこのあたりにはいくつも”座”が設けられました。”材木座”という地名はそれが今に残ったものです。
現在の材木座周辺は観光に訪れる方は少ないようです。点在する寺社も中・小規模ですので幾つかを組み合わせてまわるのがよいでしょう。 ここでは,大町方面から長勝寺,来迎寺,五所神社,実相寺とまわってみます。 |
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石井山 長勝寺(ちょうしょうじ) 鎌倉 |
<<四天王とは>>
須弥山(しゅみせん)の中腹の四方に配し,仏法を守護している神。 東に持国天,南に増長天,西に広目天,北に多聞天(毘沙門天)を配する。 <<大荒行成満祭(だいあらぎょうじょうまんさい)と水行の場>> 本堂前に水行の場が設けられています。 毎年2月11日,鎌倉の名物行事,修行増が冷水を浴びる荒行,大荒行成満祭はこの場で行われます。 <<法華堂(祖師堂)>> 境内の南側の石段を上った所に法華堂があります。法華堂は室町時代末ころの建造と推測され,県の指定文化財になっています。 ((来迎寺方面へ向かう)) 境内の本堂に向かい右側,六角道の脇に小さな出入り口があります。来迎寺方面に向かうにはこちらから出るのがよいでしょう。静かな住宅地の道を歩くこと300m〜ほどで来迎寺に着きます。 |
持国天(四天王;東方の守り)と六角堂 | 長勝寺 水行の場 | 長勝寺 法華堂 | ||||
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随我山 来迎寺(らいごうじ) 鎌倉 |
源頼朝が,三浦大介義明の供養のために建久5年(1194)に能蔵寺を創建し,義明の持仏念 阿弥陀如来と観菩薩を奉納しました。のち時宗に改め来迎寺と称しました。
<<観音霊場鎌倉三十三ヶ所の第十四番札所>> 札所本尊は聖観世音菩薩です。 |
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<<三浦大介義明の討死と石橋山の合戦>>
源頼朝が挙兵し石橋山に陣をはったとき。三浦大介義明は三浦党を率いて頼朝のもとへ馳せようとしました。しかし嵐で進めずにいたところ頼朝の敗報を聞き,しかたなく三浦に戻ろうとしたところ畠山重忠(このとき畠山重忠は頼朝追討側にいました)の軍勢と遭遇してしまいました。一戦を交え,一度は畠山軍を敗走させましたが、体制を整え攻めてきた畠山軍に三浦軍は衣笠城に籠城し対抗することになり、落城濃厚となる中、義明は「我れ源家累代の家人として、幸いにして頼朝公の御家再興のときに出会た。何と喜ばざらんや。しかるに我れは80さいをこえ。余算を計るにいくばくもあらじ。よって我が老命を頼朝公に献じ、その功を汝ら子孫に残さん。されば汝ら急ぎこの城を退き、頼朝公の御跡を慕い参らすべし。〜〜。」そう言い,衣笠城にこもり,畠山の軍勢を足止めし,討死しました。 この折,義明の孫の多々良三郎重春も討死しました。 逃れた三浦軍は、船で安房に向かいました。その海上で石橋山の合戦で敗走し、真鶴の岩浦から船出した頼朝一行に遭遇しました。 <<三浦大介義明,多々良三郎重春の墓所>> 本堂の裏にまわると,三浦大介義明,多々良三郎重春の墓,家来の墓があります。 ((長勝寺から,そして五所神社へ向かう)) 来迎寺へ向かう小さな路地の入口に石票が建っています。ここを山側へ進みます。 五所神社へは石票の建っているところまで戻ってから,数十m進んだところを,山側へ路地を入ります。 |
来迎寺へ向かう路地の入口 | 三浦大介義明,多々良三郎重春の墓 | 三浦大介家来の墓 | ||||
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五所神社(ごしょじんじゃ) 鎌倉 |
明治41年(1908),乱橋村と材木座が合併したおり,当地の三島神社に,近隣の諏訪・八雲・視女・金毘羅の各神社を合祀したといいます。
山腹の狭い境内にひなびた感じのする小じんまりとした神社です。この狭い境内に集められた石仏・石造物・板碑は多く,ところ狭しと並べられています。これらをたずねて訪れたいところです。 |
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<<不動種子板碑(ふどうじゅしいたび):弘長2年銘>>
もとは,材木座にあった感應寺の境内に建っていたましたが,廃寺になり五所神社創設の折移されてきました。 この板碑は弘長2年(1262)銘があり,このように完全に保存されているものは極めて珍しいといいます。 昭和16年(1941)に国の重要美術品に指定されました。 <<石仏・石造物・庚申塔などについて>> 五所神社境内に集められたこれらの石仏・石造物・庚申塔などはもともと材木座の町や路地に点在して建っていたものです。 これらには,古く希少なものも多くあります。 青面金剛像,猿田彦神,帝釈天像,阿弥陀如来像など。 |
五所神社 不動種子板碑 | 五所神社 寛文庚申塔 他 | 五所神社 庚申塔 他 | ||||
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実相寺(じっそうじ) 鎌倉材木座 |
五所神社の前を材木座方向にさらに100mほど進むと左側に弘延山実相寺(こうえんざんじっそうじ)があります。門には「日昭尊者濱土法華堂霊跡」とあります。
日昭は、日蓮の文永8年(1271)の佐渡流罪の後、法華堂を建てて法灯を守ったといいます。それが濱土の法華堂と呼ばれ信仰を集めたといいます。 日蓮が没した後、弘安7年(1284)、風間信昭が法華堂の傍らに一寺を建立し、日昭を開山とし妙法華寺と称しました。それが実相寺の前身となりました。 妙法華寺は、各地を移転した後の寛永2年(1625)、伊豆の玉沢(現 三島市)の地に移り、身延派本山の妙法華寺となりました。 現在の実相寺は、元和7年(1621)日潤が旧地に再興したものと云われています。 |
実相寺 | 実相寺 | 実相寺 本堂 | ||||
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