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鎌倉市大船には「古道鎌倉道中の道」が通っていました。
その離山(はなれやま)から水堰橋(すいせきばし)までのおよそ1kmの間を歩いてみます。 |
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<< アプローチ >> |
(JR大船駅(東口)より) JR大船駅東口から離山までおよそ0.6km |
JR大船駅東口から北鎌倉方向に200mほど進み左折します。南東に伸びるバスの通る道を進み、道が右に急カーブするところで交差する道が古道鎌倉道中の道です。離山(はなれやま)と呼ばれる所です。なお「離山バス停」がある交差点は200mほど先です。
<行程> JR大船駅(東口)〜(およそ0.6km)〜離山(古道鎌倉道中の道)〜(およそ250m)〜離山富士見地蔵尊〜(およそ500m)〜成福寺{〜(往復およそ100m)〜厳島神社}〜(およそ200m)〜水堰橋 (付近の略地図は 大船から今泉方面 周辺 略地図 のページへ) |
古道鎌倉道中の道 離山(はなれやま)から水堰橋(すいせきばし)へ (鎌倉市大船付近) |
<<古道鎌倉道(こどうかまくらみち) と 大船>>
中世の鎌倉政権(鎌倉幕府)は、御家人たちに有事に素早く鎌倉へ馳せ参ずることができるようそれぞれの居館から鎌倉への道を整備させました。そして多くの鎌倉へ向かう道ができました。それらは後の文献等に「鎌倉道」(かまくらみち)と称され、さらに場所や向かう方面によって「上の道(かみのみち)」「中の道(なかのみち)」「下の道(しものみち)」に分類されるようになりました。 またその後も、多くの鎌倉道(鎌倉へ向かう道)が造られました。ここではそれらの鎌倉道のうち、江戸期末ごろまでの道を古道鎌倉道と呼ぶことにします。 なお、「上の道」は、鎌倉からは、北方向へ、武蔵野から埼玉西部を北上し、おおよそ東山道(とうざんどう;後の「中山道(なかせんどう)」)方面への道をいいます。関東の西側に位置しています。なお、一部の文献では、こちらを「下の道」としていることもあります。 「中の道」は、鎌倉から北東方向へ、山ノ内から埼玉東部辺りを経て関東中央部を通り奥州方面への道をいいます。 「下の道」は、鎌倉から東方向へ、三浦半島を横断して金沢から海(東京湾)を渡るかまたは東京湾沿いに北上し、安房、上総、下総方面への道をいいます。 鎌倉市大船には「古道鎌倉道中の道」が通っていました。そのうちの離山(はなれやま)から水堰橋(すいせきばし)までのおよそ1kmの間を紹介します。 (※注 「鎌倉道」とは、それが鎌倉へ向かう道であるということです。上記は鎌倉を起点に説明しましたので向かう方向を逆に記しました。) |
離山(はなれやま) 古道鎌倉道中の道(鎌倉市大船付近) |
鎌倉道中の道 離山付近笠間十字路方向 | 鎌倉道中の道 離山付近水堰橋方向 |
JR大船駅の東に400mほど、駅に平行に南北に古道鎌倉道中の道が通っています。住宅地の中の狭い道で笠間十字路方向から大船小学校校地の東側に接し南方向に山ノ内方面に向かって伸びています。なお現在の古道は所々分断しています。
古道沿いの離山に向かいます。JR大船駅東口からいく場合、北鎌倉方向に200mほど進み左折します。南東方向へのびるバスの通る道を400mほど進み、道が右に急カーブするところで交差する道が古道鎌倉道中の道です。この辺が離山(はなれやま)と呼ばれる所です。古道の東側に北から腰山、長山、地蔵山の三つの小山があったといいます。それぞれが離れていたので離山と呼ばれました。それぞれは古墳ではないかとも考えられていました。現在は宅地開発によりすべて消失しました。なお「離山バス停」がある交差点は200mほど先です。 ここから、右に折れて南方向に古道を進みます。 |
離山富士見地蔵尊(はなれやまふじみじぞうそん) 古道鎌倉道中の道(鎌倉市大船付近) |
離山の交差点で右に折れて南方向に古道を進みます。宅地の中の狭い道はゆっくり左にカーブし、250mほど進むと広い道との交差点に出ます。この左角に地蔵堂が建っています。離山富士見地蔵尊です。
この辺はかつての離山の一つである地蔵山の南側裾にあたります。地蔵山は元禄のころに地蔵尊が置かれ、それ以後地蔵山と呼ばれるようになったといいます。地蔵山は昭和十三年(1938)に崩され、地蔵尊は、昭和五十八年(1983)に現在の位置に安置されました。 堂内には、風化した石造の地蔵菩薩坐像が安置されています。堂の前にはまだ新しい石標が建ち、その正面に「離山富士見地蔵尊」とあります。側面には「旧鎌倉街道中ノ道」とあります。堂の横後方には石仏・石塔が並んで置かれています。 ここで、交差点を渡り古道をさらに進みます。古道はここから水堰橋まで直線状に伸びています。 |
離山富士見地蔵尊 | 離山富士見地蔵尊 | 離山富士見地蔵尊 石標 | ||||
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離山富士見地蔵尊わき 石仏・石塔 | 離山富士見地蔵尊わき 石仏・石塔 | 離山富士見地蔵尊から水堰橋へ向かう | ||||
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成福寺 (じょうふくじ) 亀甲山法得院成福寺(きっこうざんほうとくいんじょうふくじ) 浄土真宗 古道鎌倉道中の道(鎌倉市大船付近) |
<<由緒 等>>
貞永(じょうえい)元年(1232)、成仏(じょうぶつ)を開山として開かれました。 成仏は北条泰時(ほうじょうやすとき)の末男で、北条泰次といいました。親鸞(しんらん; 鎌倉時代前半から中期にかけての僧で、浄土真宗の宗祖とされています。 )に帰依し成仏を名のりました。本寺の本堂裏手の亀の窟に籠もり念仏修行をしたといいます。 当寺は鎌倉幕府滅亡のころからしばらくは無住になり、その後小田原北条氏の浄土真宗迫害により伊豆の国北条(現 伊豆の国市)に移りました。その後、慶長十七年(1612)、十一世西休の時に旧地に再興しました。 <<離山富士見地蔵尊から成福寺へ 山門>> 離山富士見地蔵尊から古道を水堰橋方向におよそ500mほど進むと横須賀線の踏切に行き当たります。その踏切手前左側に成福寺はあります。 踏切手前で左に折れ線路沿いの道へ入るとその左手に成福寺の山門が建っています。山門は茅葺きの四脚門で古い趣きのあるものです。 |
成福寺 山門 | 成福寺 山門 | 成福寺 山門脇石標 | ||||
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<<本堂、本尊>>
山門を入ると、正面に本堂が建ちます。本尊は阿弥陀如来立像(あみだにょらいりつぞう)です。脇壇の厨子には聖徳太子立像が安置されていて室町時代の作です。 <<前庭>> 石仏・石塔が並べられ置かれた石壇、親鸞上人像、忠魂碑等あります。 <<庫裡、客仏>> 山門に向かって右手に、まだ新しい庫裡が建っています。平成十四年(2002)に新装されました。こちらには、客仏の旧小袋谷吾妻堂(廃寺)の本尊の虚空菩薩坐像(こくうぼさつざぞう)が安置されています。 |
成福寺 本堂 | 成福寺 本堂内 |
成福寺 庫裡 | 成福寺 前庭 | 親鸞上人像 成福寺 | ||||
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厳島神社 (いつくしまじんじゃ) (小袋谷鎮守) 古道鎌倉道中の道(鎌倉市大船付近) |
<<由緒 等>>
成福寺の後方(北東側)の山は亀甲山といいます。厳島神社はこの山上にあります。かつてこの場所には、成福寺の鬼門除けの神社である八幡社がありました。また成福寺の南側横須賀線の線路を挟んだ辺りには弁天社(現 厳島神社)がありました。また近くには吾妻社もありました。 横須賀線(明治22年(1889)開通)の開通工事のおり、弁天社は吾妻社の敷地(現 小袋谷公会堂敷地)に移されました。 大正十二年(1923)、関東大震災でこれらの神社は倒壊しました。 昭和二年(1927)、八幡社があった場所に、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を主神として厳島神社(旧 弁天社)が移転し再建しました。昭和四年、吾妻社を合祀しました。昭和八年、八幡社を合祀しました。 祭神は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、橘姫命(たちばなひめのみこと)、応神天皇(おうじんてんのう)の三柱です。 なお、弁天社は弁財天を祀っています。弁財天は仏教の神ですが、民間信仰では安芸の厳島神社の主神である市杵島姫命と同一視されることがあります。そこで明治の神仏分離のおり弁天社の多くが厳島神社と改名しました。 <<成福寺山門前から厳島神社参道へ>> 成福寺山門前から横須賀線の線路沿いの道を北鎌倉方向に進みます。すぐ先の成福寺の駐車場角を左に曲がります。道の先に石段の参道と鳥居が見えます。 <<庚申塔 厳島神社参道>> 参道の石段の途中に最初の鳥居があります。その鳥居をくぐった左手に庚申塔が数基ならんでいます。 左の舟形塔は寛文十年(1670)銘で、上部に阿弥陀三尊を表す「キリーク(阿弥陀)、サ(観音)、サク(勢至)」の種子(梵字)が刻んであります。種子を刻んだ庚申塔としては鎌倉で最も古いものです。下部には三猿(いわざる、きかざる、みざる)が浮き彫りにされています。なお、この庚申塔は水堰橋の北側にあったものです。 |
厳島神社へ 横須賀線沿いの道 | 厳島神社 参道石段 | 厳島神社参道から山崎方面を望む | ||||
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厳島神社参道 | 庚申塔 厳島神社参道 | 庚申塔解説板 厳島神社参道 | ||||
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<<境内 社殿 狛犬 等>>
石段を上りきると、左手に鳥居がありその奥に社殿が見えます。鳥居を入った両側には狛犬もあります。 狛犬は、昭和11年(1936)造で、江戸流れ型です。 |
厳島神社 社殿前鳥居 | 厳島神社 狛犬(左側) | 厳島神社 狛犬(右側) | ||||
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厳島神社 社殿 | 厳島神社 社殿の龍の彫刻 |
厳島神社社殿 飾り瓦 | 厳島神社社殿 飾り瓦 |
水堰橋 (すいせきばし) 古道鎌倉道中の道(鎌倉市大船付近) |
<<成福寺前から水堰橋へ>>
成福寺前の横須賀線の踏切を渡り、古道をさらに南方向へ進みます。途中に小袋谷公会堂があります。前記した吾妻社があったところです。200mほど進むと水堰橋の架かる交差点に出ます。水堰橋は、古道の藤沢・江ノ島方面への道の分岐でした。なお、水堰橋は古くは「せいしくばし」とよばれました。 <<道標 等>> 交差点の角、橋のたもとに享保十二年(1727)建立の道標(市文)が建っています。上部に観音菩薩の浮き彫りがあり、下部中央に「道」の字が刻まれています。右に「右とつか」、左に「左藤さわ」と刻まれています。 その脇に、比較的新しい石標があり、そこには「せゐしくばし」と刻まれています。 古道かまくら道中の道は、ここから山ノ内から巨福呂坂(こふくろざか)切通(きりどおし)、または亀ヶ谷坂(かめがやつざか)切通を経て鎌倉の鶴岡八幡宮横大路へ続いていました。 |
水堰橋 | 水堰橋 | 水堰橋 道標 | ||||
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