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常楽寺(じょうらくじ)は粟船山常楽禅寺(ぞくせんざんじょうらくぜんじ)といい、鎌倉市大船(かまくらしおおふな)にあります。山号にある「粟船(あわふな)」は大船の古名です。
蘭溪道隆(らんけいどうりゅう、建長寺の開山)は建長寺(けんちょうじ)を開く前にこの寺に住み禅宗を広めました。 |
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<< アプローチ >> |
(JR大船駅(東口)より) JR大船駅東口から約1.2km |
JR大船駅東口から北鎌倉方向に200mほど進み左折します。南東に伸びるバスの通る道を進み、途中「離山(はなれやま)」バス停を過ぎ、右手に大船中学校を見て1kmほど進みます。その先、左が石標が建つ常楽寺の参道入口になります。
(付近の略地図は 大船から今泉方面 周辺 略地図 のページへ) |
粟船山常楽禅寺(ぞくせんざんじょうらくぜんじ) (臨済宗建長寺派) (鎌倉市大船) |
<<縁起 他>>
開山は退耕行勇(たいこうぎょうゆう;鎌倉時代の臨済宗の僧)、開基は北条泰時(やすとき;鎌倉幕府三代執権)と伝えられています。 嘉禎3年(1237)、北条泰時が夫人の亡き母の供養のため粟船御堂(あわふねみどう)を建立したのが始まりといわれています。なお粟船{あわふな(あわふね)}は大船の古名です。泰時は亡くなるとこの寺に葬られました。常楽寺(常楽禅寺)という名称は泰時の法名「常楽寺殿」からとられたといわれています。 宝治2年(1249)12月、蘭溪道隆(らんけい どうりゅう;大覚禅師)は、北条時頼(ときより;鎌倉幕府五代執権)に招きにより常楽寺に入りました。道隆はこの寺に住み禅を広めました。のち(建長5年(1253))建長寺を開きました。なお建長寺の開山は蘭溪道隆、開基は北条時頼です。 {※ 蘭溪道隆(らんけいどうりゅう、大覚禅師、(1213-1278) ); 南宋の高僧で鎌倉時代中期に弟子とともに来日(1246年)しました。鎌倉に建長(けんちょう)寺を開創しました(建長5年(1253)。一時京都の建仁(けんにん)寺に迎えられましたが,また鎌倉に戻りました。} <<梵鐘(国重文); (現在 鎌倉国宝館にて保管)>> 常楽寺の梵鐘は、北条時頼(ときより;鎌倉幕府五代執権)が祖父の泰時(やすとき)追善のため造った宝治二年(1249)三月二十一日銘で、鎌倉最古のものです。円覚寺、建長寺の梵鐘とともに鎌倉三名鐘とされ、一般に響きは建長寺、大きさは円覚寺、姿は常楽寺といわれています。現在、国の重要文化財に指定され、鎌倉国宝館に保管され常時展示されています。 |
常楽寺 参道入り口 | 常楽寺 参道 | 常楽寺山門前 解説板 | ||||
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常楽寺 山門に掲げられた額 | 常楽寺 山門 | 常楽寺 山門(境内側) | ||||
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<<参道から山門へ>>
常楽寺の参道入口までJR大船駅から約1.2kmです。参道の入口には、粟船山常楽禅寺と掘られた石標が建ちます。参道の先100mほどのところに茅葺きの山門が見えます。 山門は、茅葺きの四脚門です。鎌倉市の指定文化財となっています。掲げられた額の「粟船山」の文字は黄檗宗(おうばくしゅう)の僧木庵(もくあん)の筆といいます。 黄檗宗(おうばくしゅう)とは、江戸時代に始まった一宗派で、 臨済宗、曹洞宗に次ぐ日本の三禅宗のうちの一つです。 門前左手前には、山門が市指定文化財であることを示す木標と、寺の縁起等がかかれた解説板が建っています。 山門脇の通用門が開けられていて境内に入ることができます。 <<仏殿>> 山門から境内に入り、正面の仏殿に向かいます。 仏殿は県指定重要文化財で、元禄四年(1691)の再建といわれています。寄棟造り茅葺きの禅宗様式の建物です。中央の扉が開けられていて内部を見ることができました。本尊は阿弥陀三尊像(あみださんぞんぞう)です。奥に蘭溪道隆坐像(市文)応永三十二年(1425)銘が安置されています。天井には狩野雪信(かのうゆきのぶ)の雲龍が描かれています。 |
常楽寺 仏殿 | 常楽寺 仏殿内部 | 常楽寺 天井絵 | ||||
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<<文殊堂(もんじゅどう)>>
仏殿に向かって左側に文殊堂が並んであります。茅葺き入母屋造りで、明治十四年(1881)に英勝寺から移築したものです。その際、寄棟を入母屋に改め、土台を高床に改めたといいます。 堂内に、鎌倉時代の作といわれる文殊菩薩坐像(もんじゅぼさつざぞう)(県重文)を安置します。秘仏とされ1月25日の文殊祭のおり開帳されます。また室町時代の作といわれる毘沙門天立像(びしゃもんてんりつぞう)、不動明王立像(ふどうみょうおうりつぞう)を安置します。 |
常楽寺 文殊堂 | 常楽寺 文殊堂 |
<<本堂>>
仏殿の右手に昭和四十五年(1970)に再興された本殿が建ちます。本尊は南北朝時代の作といわれる木造釈迦如来坐像(しゃかにょらいざぞう)(市文)です。 <<庭園>> 本堂の左手奥、仏殿の右手に庭園があります。そこに色天無熱池(しきてんむねつち)いう池があり、尾叩き池とも呼ばれています。かつて池に中島があり、小さな弁天社があり、そこに乙護童子立像(おとごどうじりつぞう;室町時代の作といわれる)を祀っていたと伝えられています。現在は本堂に安置されています。 乙護童子は、蘭溪道隆(大覚禅師)が江の島に参龍(さんろう)したおり、弁財天から授けられたという童子で、禅師に一生仕えたと伝えられる侍者です。また以下のような伝説も伝わっています。 <<尾叩き池の伝説>> 常楽寺で教えを広めていた蘭溪道隆(大覚禅師)のもとに、評判を聞いた江の島弁財天も教えを乞うためにやってきました。そこで禅師に献身的に仕える乙護童子(おとごどうじ)の姿に感銘するも嫉妬心も湧き童子を女性の姿に変えてしまいました。童子はその後も変わることなく禅師に仕えていましたが、はた目には禅師が美しい女性を寵愛しているかのように見え、うわさになりました。そこで、童子は身の潔白を示そうと、白い大蛇になって大銀杏(おおいちょう)の幹に七回り半も巻きつき、色天無熱池(しきてんむねつち)の底を尾で叩いたといいます。 |
常楽寺 本堂 | 常楽寺 本堂と庭園 |
<<北条泰時 他 の墓>>
仏殿の裏に北条泰時(ほうじょうやすとき;鎌倉幕府三代執権)の墓という石塔が建っています。三基の石塔が並んであります。その前に建つ板石碑によると向かって右側にあるものが北条泰時の墓になります。 |
常楽寺 北条泰時 他 の墓 | 常楽寺 北条泰時の墓 |
<<裏山へ (木曽塚 等)>>
境内を出て山門の前まで戻ります。山門に向かって左へ境内に沿って細い道を進みます。道は狭くなりその先で階段を上る山道になります。 途中に石の祠が2つあり、傍らの立札に「姫宮の墓」と「粟船稲荷」とあります。手前の石祠(せきし)が姫宮の墓ということになります。それは北条泰時(やすとき)の娘の墓といわれています。また大姫の墓とも伝えられています。大姫とは源頼朝(よりとも)の長女で、源義仲(よしなか;木曽義仲)の嫡男義高(よしたか)の許嫁です。 山道を上りきると、左手の大きな銀杏(いちょう)の根元に木曽塚とよばれる塚があります。その前に墓碑があり「木曽清水冠者義高公之墓」(きそしみずかんじゃよしたかこうのはか)とあります。 木曽清水冠者義高とは、源義仲(みなもとのよしなか;木曽義仲)の嫡男の源義高(みなもとのよしたか)のことです。 <<義高 と 大姫>> 義高(源義高(みなもとのよしたか))(承安3年(1172))〜))は源義仲(みなもとのよしなか;木曽義仲)の嫡男で、鎌倉の源頼朝(みなもとのよりとも;のち鎌倉幕府を開く。鎌倉幕府初代将軍)のもとに人質として送られました。そして頼朝の長女の大姫と婚約をしました。その時義高は11才、大姫は5才でした。 頼朝が平家打倒の兵をあげると、義仲はそれの呼応して北陸道を攻め上りいちはやく上洛を果たしました。しかし頼朝はそれに対し討伐軍を派遣し、義仲は近江の国粟津で敗れ敗死しました(元暦元年(1184))。 そして頼朝は即座に人質の義高の誅殺を命じました。それを知った大姫の付き人たちは、義高の脱出を計りました。義高の寝所に身代わりを置き、義高は女装して殿中を抜け出し用意してあった馬に乗り逃れました。それを知った頼朝はただちに追手を放ちました。義高は武蔵の国入間川で堀藤次親家配下の内藤光澄らによって討ち取られ、そして首は鎌倉に持ち帰られました。首実検のあと葬られたといいます。 それを知った大姫は悲しみから病床にふし、その後も回復することはありませんでした。 政子(頼朝の室、大姫の母)は怒り、大姫の病は義高を討ったためであると頼朝を責めました。頼朝は義高を討った内藤光澄など堀藤次親家の郎党を斬罪しその首をさらしました。 なお、大姫はその後も癒えることなく20才前後で亡くなり、薄幸の短い生涯を終えました。(建久八年(1197)七月) |
裏山への道 常楽寺 | 裏山への道 常楽寺 | 裏山への道 常楽寺 | ||||
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姫宮の墓 常楽寺裏山 | 木曽清水冠者義高公之墓 常楽寺裏山 | 木曽清水冠者義高公之墓 常楽寺裏山 | ||||
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