鎌倉 (旧鎌倉郡) の歴史を訪ねて    
      妙本寺   と   蛇苦止堂    (鎌倉比企ヶ谷)     
   比企能員邸址がある鎌倉比企ヶ谷に建つ古刹   
    
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   妙本寺(みょうほんじ)はJR鎌倉駅にほど近い「比企ヶ谷(ひきがやつ)」の山間に建つ古刹、源頼朝(みなもとのよりとも:鎌倉幕府を開いた鎌倉幕府初代将軍)の重臣比企能員(ひきよしかず)邸址にある、比企一族ゆかりの寺です。
 境内にある蛇苦止堂(じゃくしどう)は、比企能員の娘で、2代将軍源頼家(みなもとのよりいえ)の側室若狭(わかさのつぼね)を祀っています。

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  << アプローチ >>    
      (JR鎌倉駅(東口)より)  
  ・   JR鎌倉駅(東口) 〜 小町大路 〜 夷堂橋(えびすどうばし)  ( およそ 300m )  
  ・   夷堂橋 〜 妙本寺総門  ( およそ 100m )  

 JR鎌倉駅東口から、若宮大路をわたり、本覚寺の境内をぬけ小町大路に出ます。小町大路は右手すぐに夷堂橋(えびすどうばし)があり滑川を渡ります。
 夷堂橋を渡ると正面に妙本寺の総門が見えます。

    (付近の略図(地図)は  祇園山ハイキングコース  のページへ)
 



   妙本寺 (みょうほんじ)        長興山 妙本寺 (ちょうこうざん みょうほんじ)(日蓮宗)       
       
妙本寺参道 画像 妙本寺総門 画像 妙本寺境内 画像  
妙本寺 参道 妙本寺 総門 妙本寺 総門から二天門へ  
 
     
 妙本寺は、比企ヶ谷(ひきがやつ)に建つ比企一族ゆかりの寺です。
 開山は日蓮(にちれん)、開基は比企大学三郎能本(ひきだいがくさぶろうよしもと)、文応元年(1260)の創建です。(総門前、「略記」より:なお開山を日朗(にちろう:日蓮の弟子)としている文献もあります)
 開基の比企能本(ひきよしもと)は、日蓮に帰依(きえ)し、法名を日学と称しました。源頼朝(みなもとのよりとも:鎌倉幕府を創始した、鎌倉幕府初代将軍)の重臣である比企能員(ひきよしかず)の末子といわれています。能本は比企一族滅亡(1203:比企氏の乱)のとき乱を逃れ、その後、一族のゆかりの地であるこの地に法華堂を建てたのが妙本寺の始まりといいます。
 山号の長興は能本の父である能員の法号、寺号の妙本は母の法号に由来するといいます。

<<比企氏の乱と比企能員邸址>>
 妙本寺のある辺りは、比企ヶ谷(ひきがやつ)と呼ばれ、比企能員(ひきよしかず)一族の居館があったところです。妙本寺総門わきには「比企能員邸址」の石碑が建っています。
 比企能員は、源頼朝(みなもとのよりとも:鎌倉幕府を創始した、鎌倉幕府初代将軍)の重臣で、頼朝挙兵依頼の功臣です。比企の尼(ひきのあま:能員の妻の母、養母)は頼朝の乳母で伊豆に流されていた頼朝を支えつづけました。頼朝の嫡男頼家(よりいえ:二代将軍)が生まれると能員の妻はその乳母となりました。娘の若狭局(わかさのつぼね)は頼家の側室となり一幡(いちまん)を産みました。能員はこのように頼家の外戚として後見として権勢を増していきました。
 頼家は将軍に就くと、幕府の実権を握ろうとする北条時政(ほうじょうときまさ:頼家の母である政子の父、つまり祖父にあたる)と対立するようになりました。そこで時政は頼家の弟千幡(せんまん:後の三代将軍実朝(さねとも))を擁して頼家を排除しようと画策し、その計画を進めていきました。それは、頼家の後見である能員との対立に発展していきました。
 建仁3年(1203)、頼家の病気を機に時政は一幡、千幡への将軍家の家督の分割を決めました。それに反発した能員は病床の頼家と計り北条氏追討を画策しました。しかし事前に計画は漏れ、能員は名越邸(時政の屋敷)に仏事のためと呼び出され謀殺されました。さらに、北条方の軍勢が比企氏の居館を襲撃しました。比企氏一族は戦いの準備もろくにできぬまま一幡を擁し戦いましたが敗れ一族は滅亡しました。
 その後、実朝(千幡)が三代将軍となりました。頼家は伊豆の修善寺に幽閉され、その後、北条氏が放った刺客に殺害されました。
    
       
妙本寺略記 画像 妙本寺 画像 妙本寺 画像  
妙本寺総門わき 略記 比企能員邸址の碑 妙本寺総門わき 比企谷幼稚園 妙本寺総門そば  
 
     
<<妙本寺総門へ>>
 JR鎌倉駅方面から滑川に架かる夷堂橋(えびすどうばし)を渡ると正面の参道の向こうに総門が見えます。総門は江戸時代後期の建造といいます。
 総門の右側わきには、「比企能員邸址の碑」や「妙本寺の略記」などが立ち並んであります。右手の比企谷幼稚園の特徴的な建物が眼を引きます。
 総門をくぐると、左に分れる上り坂の道があります。ここは正面の二天門へ続く道をたどりましょう。なお、左手の道は蛇止堂へ続きます。二つの道の間には石段の道が山腹を上っています。こちらは本堂、書院へ直接向かう道です。

<<二天門へ>>
 総門から、うっそうと茂った木々の間を進み、石段を上ると朱塗りの二天門があります。
 二天門の右側には持国天(じこくてん)、左側のは毘沙門天(びしゃもんてん)=多門天(たもんてん)が安置されています。嘉永元年(1842)頃の建造といわれています。
 二天門をくぐると正面に立派な祖師堂が建ち、ひらけた庭が広がります。
    
       
妙本寺 二天門 画像 妙本寺 持国天 画像 妙本寺 画像  
二天門 妙本寺 多門天=毘沙門天 妙本寺二天門 持国天 妙本寺二天門  
 
     

       
妙本寺祖師堂 画像 妙本寺祖師堂 画像 妙本寺境内 画像  
妙本寺 祖師堂 妙本寺 祖師堂 祖師堂から二天門を見る 妙本寺  
 
     

<<祖師堂と霊宝殿>>
 正面に堂々とした祖師堂が建っています。天保年間(1830-44)の再建といわれています。堂内には木造日蓮聖人坐像が安置されていました。この日蓮像は身延山・池上本門寺の像とともに一本の木から刻まれた「一木三体の像」として知られています。十三世紀から十四世紀頃の作といいます。  
 祖師堂の左側手前に霊宝殿があります。妙本寺の寺宝のいくつかがこちらに移され安置、保管されています。

<<日蓮聖人像と日蓮聖人鎌倉開教聖地の碑>>
 祖師堂の左側、霊宝殿よりさらに手前に日蓮聖人像と日蓮聖人鎌倉開教聖地の碑が建っています。
    

日蓮聖人像 妙本寺 画像 日蓮聖人鎌倉開教聖地の碑 妙本寺 画像  
日蓮聖人像 日蓮聖人鎌倉開教聖地の碑  
 

<<一幡(いちまん)の袖塚>>
 鎌倉幕府二代将軍の源頼家の嫡男一幡の廟所です。祖師堂の右側手前、二天門寄りの竹垣に囲まれた所です。
 比企氏の乱(建仁3年(1203))のあと、小御所(比企邸内にあった一幡の住居)の焼け跡からみつかった亡骸に一幡の小袖の模様がわずかに焦げ残っていて、その遺骨を拾い供養したといいます。

<<海棠(かいどう)の木>>
 祖師堂の右手前の柵の内に海棠の木が植えられています。ここの海棠は何度が植え替えられています。かつては名木といわれた老樹が花をさかせていました。
    
       
一幡の袖塚 妙本寺 画像 一幡の袖塚 妙本寺 画像 海棠の木 妙本寺 画像  
一幡の袖塚 妙本寺境内 一幡の袖塚 妙本寺境内 海棠の木 妙本寺境内  
 
     

<<比企氏一族の墓>>
 祖師堂に向かって右側の山裾に比企一族の墓が並んであります。
 石垣で一段高くなった所に五輪塔が4基並んであります。その、右側のものは妙本寺開基の日学夫妻の供養塔、左側のもの比企能員夫妻の供養塔です。日学は比企能員の末子能本の法名です。

<<寿福院(じゅふくいん)の逆修塔>>
 比企氏一族の墓の並び右手に立派な大五輪塔があります。これは寿福院(じゅふくいん)の逆修塔(ぎゃくしゅとう:生前に死後の冥福を祈って建立した供養塔)です。塔の各部に「妙・法・蓮・華・教」の五文字が刻まれ、側面に「加賀太守宰相卿之御母公 寿福院殿日栄逆修」とあります。(1624建立)
 寿福院は千代といい、加賀前田家藩祖の前田利家の側室で利常を産みました。利常が藩主(三代藩主)になると、慶長19年(1614)藩主の生母として、芳春院(利家の正室「まつ」)と入れかわりに人質としてに江戸へ下りました。その後、寛永8年(1631)江戸藩邸にて没しました。

<<若狭局(わかさのつぼね)の墓>>
 大五輪塔(寿福院の逆修塔)の背後の一段高い所、一幡の袖塚を見下ろす所、大きないちょうの木の根元に若狭局(わかさのつぼね)の墓といわれている供養塔があります。墓標には「讃岐局蛇苦止霊之墓」とあります。讃岐局(さぬきのつぼね)と若狭局は同一人物と考えられています。
 若狭局は比企能員の娘で頼家の側室となり一幡を産みました。比企氏の乱(建仁3年(1203))のおり、我が子一幡と運命をともにしました。
    
       
比企氏一族の墓 妙本寺 画像 寿福院の逆修塔 妙本寺 画像 若狭局の墓 妙本寺 画像  
比企氏一族の墓 妙本寺境内 寿福院の逆修塔 妙本寺境内 若狭局の墓 妙本寺境内  
 
     

<<万葉集研究遺蹟の碑>>
 祖師堂の左側に石段があり山へ上って行く道があります。その石段の上り口わきに「万葉集研究遺蹟」の碑が建ちます。石碑の上部に篆書(てんしょ)という書体で記されています。
 この地にはかつて新釈迦堂があり、そこの供僧(ぐそう)の仙覚(せんがく)は、新釈迦堂とその僧坊で寺務のかたわら万葉集の研究をしたといいます。仙覚は「万葉集」の本文校訂など業績をあげ「万葉集」の研究者として知られています。建仁2年(1203)の生まれと推測され、出生に関しては不詳ですが比企氏ゆかりの者ともいわれています。
 なお、新釈迦堂は竹御所の冥福を祈るために建立された廟で、本尊は釈迦如来です。

<<竹御所(たけのごしょ:源よし子(みなもとのよしこ))の墓所へ>>
 祖師堂の左側の石段の道を進みます。この道は妙本寺背後の墓地に向かいます。途中右に祇園山ハイキングコースへの分岐があります。
 竹御所の墓は、墓地の奥にあります。
 なお、この辺は紅葉の名所とされています。11月末頃に訪れると見事な紅葉を見ることができます。

<<竹御所(たけのごしょ:源よし子(みなもとのよしこ))の墓>>
 墓地の奥、石垣が組まれ一段高くなった墓所が竹御所(たけのごしょ)の墓です。墓所にある説明には、源よし子(「よし」の字は(女偏に美))とあります。
 竹御所は鎌倉幕府二代将軍源頼家の娘で、母は源義仲(みなもとのよしなか:木曾義仲)の娘ともいわれていますが不詳です。比企氏の乱のおり難を逃れ、その後も比企ヶ谷に住んでいたと思われます。その後、邸内に竹が生い茂り、ゆえ「竹御所」と呼ばれるようになったといいます。
 健保4年(1216)、14歳になったとき3代将軍実朝の養女になりました。
 実朝が公暁(くぎょう)に暗殺されると、京の九条家から九条(藤原)頼経(よりつね)がむかえられ4代の将軍になりました。頼経はそのとき9歳でした。
 将軍頼経が13歳になった時、竹御所は28歳、2人は結婚させられました(寛喜2年(1230))。その4年後男子を死産し、自身も没しました(文暦元年(1234))。
    
       
万葉集研究遺蹟の碑 妙本寺 画像 妙本寺境内 画像 妙本寺境内 画像  
万葉集研究遺蹟の碑 妙本寺境内 妙本寺境内 背後の墓地へ向かう 妙本寺境内 紅葉の頃  
 
     


竹御所の墓 妙本寺 画像 竹御所の墓 妙本寺 画像  
竹御所の墓 竹御所の墓  
 

<<佐竹やぐら>>
 墓地の入り口あたりから左手(奥、竹御所の墓に向かって)の崖を見るとやぐらがあります。佐竹やぐらです。
 応永29年(1422)、佐竹上総入道常元は家督のことで鎌倉公方足利持氏の不審を受けました。そして上杉房実が討手として向けられました。佐竹側も打って出ましたが合戦に敗れ、主従13人がこの地で自刃しました。
 やぐらの入り口に説明板が設けられています。
    

佐竹やぐら 妙本寺境内 画像 佐竹やぐら 妙本寺境内 画像  
佐竹やぐら 佐竹やぐら  
 

<<鐘楼・本堂・書院>>
 祖師堂、霊宝殿の前から、総門の方向に戻っていきます。二天門を左に見て進みます(祖師堂に向かって二天門の左側の道)。 右手の小高い所に鐘楼があります。さらに進むと本堂、書院の前を通ります。その先の石段の道を下りれば総門を入ったところの分岐にでます。石段を下りず右手に進めば蛇苦止堂に上る道の途中に出ます。
    
       
鐘楼 妙本寺境内 画像 妙本寺 本堂 画像 妙本寺 書院 画像  
妙本寺 鐘楼 妙本寺 本堂 妙本寺 書院  
 
     


   蛇苦止堂(じゃくしどう)         妙本寺 境内       

 総門を入るとすぐに道が分岐していました。その左側の上りの道が蛇苦止堂への参道です。
 蛇苦止堂は若狭局(わかさのつぼね:讃岐局(さぬきのつぼね)と同一人物と考えられています。)を祀っています。
 文応元年(1260)のその日の夕刻、北条政村の娘が突然錯乱しそして語り始めました。娘の口をかりて話始めたのは「讃岐局」を名乗る怨霊でした。「われは大きな角の生えた大蛇となって比企ヶ谷の土中で火炎のごとき苦を受けている」というのです。その場にいた者たちは身の毛もよだつおもいで恐れおののいたといいます。その後政村は経典を写し讃岐局を供養しました。また加持祈祷をして政村の娘は癒したといいます。
 そこで妙本寺建立にあたって、若狭局(=讃岐局)の怨霊を鎮めるため、蛇苦止明神として祀ったといいます。

<<蛇形の井(じゃぎょうのい>>
 蛇苦止堂の手前右側に蛇形の井があります。比企氏一族滅亡の時、若狭局が家宝を抱いて身を投げたと云われる井戸です。今も蛇に化身して家宝を守っているといい伝えられています。
    
       
蛇苦止堂 妙本寺境内 画像 蛇苦止堂 妙本寺境内 画像 蛇形の井 妙本寺境内 画像  
蛇苦止堂 妙本寺境内 蛇苦止堂前 妙本寺境内 蛇形の井 妙本寺境内  
 
     


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