鎌倉 (旧鎌倉郡) の歴史を訪ねて    
     妙隆寺         鎌倉    
    叡昌山 妙隆寺 鎬かむりの日親  鎌倉江ノ島七福神めぐり 寿老人    
    
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   若宮大路と小町大路にはさまれた所にある寺域の狭い小ぢんまりとしたお寺です。
 日親上人ゆかりの寺です。日親(にっしん:(室町時代の日蓮宗の僧))は二代住職で、「法華経」を厚く信仰した僧で、「鍋かむりの日親」として知られています。
 「鎌倉江の島七福神めぐり」の寿老人を祀る寺です。

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  << アプローチ >>    
      (JR鎌倉駅(東口)より)  
  ・   JR鎌倉駅(東口) 〜 若宮大路 〜 小町大路 〜 妙隆寺   ( およそ 500m )  

 JR鎌倉駅東口から、若宮大路をわたり、さらに進んで小町大路に出ます。小町大路を鶴岡八幡宮方向にしばらく進むと左手に妙隆寺の説明板と石塔が建つ参道の小路があります。

    (付近の略図(地図)は   祇園山ハイキングコース  のページへ)
 



   叡昌山 妙隆寺 (えいしょうざん みょうりゅうじ)           (日蓮宗)      
       
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小町大路から妙隆寺へ 妙隆寺 本堂 妙隆寺 解説板  
 
     
 至徳二年(1385)の創建で、開山は日英(にちえい)、開基は千葉胤貞(ちばたねさだ:(1288-1336))です。
 千葉胤貞が旧地の屋敷跡に七堂伽藍を建立し日英を迎え開山したといいます。胤貞は寺の創建以前の建武三年(1336)にすでに没しています。
 胤貞は千葉常胤(つねたね)の子孫で、鎌倉幕府末期から南北朝時代の武将です。鎌倉幕府の有力な御家人でしたが、鎌倉幕府滅亡後の南北朝の戦いでは北朝方につき、対立していた同族で南朝方の叔父千葉胤宗(ちばたねむね)の子貞胤(さだたね)の本拠千葉荘を攻めました。一方の貞胤は、のちの北朝方との戦いに敗れ、北朝方に寝返りました。千葉氏宗家は貞胤の子孫が継ぎました。

<<千葉常胤(ちばつねたね)>>
 平安時代末期から鎌倉時代前期の武将で、もとは下総(しもうさ)に勢力を持つ豪族でした。
 治承4年(1180)、源頼朝(みなもとのよりとも:鎌倉幕府の創始、初代将軍)は平家打倒の挙兵をしましたが、石橋山の戦いに敗れ、安房(あわ)へ逃れてきました。その頼朝にいち早く従い、鎌倉入りから幕府の創始と貢献し、幕府を支える有力な御家人になりました。

<<日親(にっしん)、鍋(なべ)かむりの日親>>
 二代住職に日親(にっしん)が入りました。日親は「法華経」を厚く信仰し、その信仰と信念を貫き通しました。布教活動は全国におよびその足跡を残ました。関東ではこの妙隆寺を活動の拠点にしました。
 応永三十四年(1427)21才の時当寺に入り、堂前の池で寒百日間水行、自我偈巻、題目千遍の修行を積んだといいます。永享十一年(1439)、京へ上り、室町幕府の六代将軍足利義教(あしかがよしのり)に法華経の教えと実践を進言しました。翌年には「立正治国論(りっしょうちこくろん)」を献じて政道を諭そうとしました。それらが義教と幕府の怒りをかい、日親は捉えられ様々な陰惨な拷問を受けました。それに屈せず信念を曲げない日親についには灼熱の鉄鍋をかぶせたといいます。のちに「鍋かむりの日親」と呼ばれるようになったといいます。
    
       
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小町大路 妙隆寺 参道入り口の石塔 山門 小町大路方向から妙隆寺境内へ 山門 妙隆寺境内から小町大路方向  
 
     

<<小町大路から山門、境内へ>>
 妙隆寺の山門・境内は小町大路から参道を30mほど西側に入った所にあります。
 小町大路の参道入り口には、石塔、案内板、寺縁起の解説板などが並びます。
 四脚門の山門の左右には塀がなく、どこからも出入りができます。山門を入ると境内は狭く小ぢんまりした感じです。正面すぐに本堂が建ちます。

<<本堂 と 本尊 寺宝 他>>
 山門を入ったすぐの正面に本堂が建ちます。本尊、寺宝が置かれています。

 ・木造日蓮大聖人坐像(本尊) -- 江戸時代作、市指定有形文化財
 ・釈迦如来立像 -- 室町時代作、千葉胤貞の念持仏と伝えられる
 ・日親上人坐像 -- 木像、江戸時代寛永11年(1634)造作、市指定有形文化財、仏師菊池出雲の作
 ・日英上人坐像 -- 木像、江戸時代寛永11年(1634)造作、市指定有形文化財、仏師菊池出雲の作
 ・千葉胤貞公像 -- 木像、江戸時代寛永年間の頃の作、仏師菊池出雲の作と思われる
  他
    
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忍力行法の池と本堂 妙隆寺 本堂内 妙隆寺  
 

<<日親上人行法御池、 忍力行法(にんりょくぎょうほう)の池>>
 日親が当寺に21才で入ったとき(応永三十四年(1427))、「大法弘通に耐え得るや否や、自らの忍力を試さん」と、寒百日間、早朝、風雪の中も、氷が張ればそれを割り、霜をふみ、池の水に身を浸し荒行を行ったといわれています。本堂前の池がその池で「忍力行法の池」、また「日親上人行法御池」といわれています。
 池の前に説明の立板があります。また、横傍の寿老人のお堂わきの説明坂には、寺の縁起も含め、そのこと、さらに寿老人(七福神の一人)が祀られていることに関しての説明があります。

<<日親上人石像 と 日親の墓>>
 忍力行法の池の背後に小さなお堂があり、日親の石像が安置されています。お堂には「なべかむり日親大上人」と記されています。
 お堂の右側には日親の墓といわれる石塔があります。
    
       
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忍力行法の池 後方に日親石像とお堂 妙隆寺 「忍力行法の池」説明の立て板 妙隆寺 解説板(縁起、日親に関して、寿老人、他) 妙隆寺  
 
     
       
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石塔 日親の墓、他 妙隆寺 石造日親像とお堂 妙隆寺 石造日親像 妙隆寺  
 
     

<<寿老人(じゅろうじん:(七福神の一人))、 鎌倉江の島七福神>>
 寿老人は、七福神という福を招くという7人の神様の一人です。安全と健康を守り、長寿を司るといいます。
 鎌倉江の島七福神めぐりとは、鎌倉と江の島周辺の七福神を祀る寺社を8ヶ所(ここは弁財天を祀る寺社が2ヶ所あるため、全部で8ヶ所になる)をめぐり招福や所願成就を願うものです。
 妙隆寺は、寿老人を祀っています。鎌倉江の島七福神めぐりのうちの一ヶ所となっています。

 本堂前の、忍力行法の池の手前傍に小さなお堂があり、ここに鎌倉江の島七福神の一つとされる欅の一本造りの木造寿老人像が安置されています。
 世の為、人の為にはいかなる苦難にも屈しない日新上人ゆかりの寺に、福神の寿老人の置かれ祀られるのが似合うということのようです。
 お堂傍の説明坂には、寺の縁起や日親にまつわること、さらに寿老人が祀られていることに関しての説明があります。
 本堂前のお庭、左手には石像の寿老人像も置かれています。
    
       
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寿老人のお堂(鎌倉江の島七福神) 妙隆寺 寿老人(鎌倉江の島七福神) 妙隆寺 寿老人石像 妙隆寺  
 
     

<<丸山定夫(まるやまさだお)の碑>>
 本堂に沿って右側を回りこみ裏手に続く通路があります。たどると本堂裏手を通る路地に抜けられます。
 この通路を進みます。すぐの本堂右手に墓地があります。その墓地に丸山定夫の碑があります。通路沿いに説明板があります。
 丸山定夫は、新劇の俳優で、昭和20年8月6日、アメリカ軍によって広島に投下された原子爆弾に被爆し43才の生涯を閉じました。
    

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丸山定夫の碑 妙隆寺 丸山定夫の碑 解説板 妙隆寺  
 

<<本堂裏手の路地へ>>
 本堂に沿って右側を回りこむ裏手に続く通路をたどると、丸山定夫の碑の先、本堂裏に石塔の並びがあります。さらに進むと、本堂裏手を通る狭い路地に出ます。
 この路地を左方向(材木座方向)へ進むと、宇都宮稲荷神社ある宇津宮辻子(うつのみやずし)幕府跡へ至ります。また右方向(鶴岡八幡宮方向)へ向かえば若宮大路幕府跡に至ります。
    
       
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本堂裏石塔 妙隆寺 本堂裏路地へ続く 妙隆寺 宇都宮稲荷神社 宇津宮辻子幕府跡  
 
     

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