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龍口(たつのくち)は刑場(龍口刑場(たつのくちけいじょう))のあったところです。日蓮(にちれん)の龍口法難(たつのくちほうなん;(文永8年(1272)9月12日))の地として知られています。
寂光山 龍口寺 (じゃっこうさん りゅうこうじ)(日蓮宗)は、龍口刑場跡に開かれた日蓮聖人ゆかりの寺です。 |
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寂光山 龍口寺 (じゃっこうさん りゅうこうじ) (日蓮宗(にちれんしゅう)) 藤沢市片瀬 |
<<日蓮と龍口法難(たつのくちほうなん)>>
文応元年(1260)7月16日、日蓮は、「立正安国論(りっしょうあんこくろん)」を書き、宿屋左衛門光則(やどやさえもんみつのり)に頼み幕府の実権を握る前執権北条時頼(ほうじょうときより)に送りました。宿屋光則は幕府の重臣で時頼の側近でした。 「立正安国論」は、国のあるべき姿や政治のあり方等を時の最高権力者である前執権北条時頼に示した書です。それは当時の最高権力者に異見するものととらえられ幕府批判ととらえられました。諸宗派に対してもそのあり方等を異見し批判し、その信者や門徒から反感を持たれるようになりました。そうして日蓮の法難が始まりました。 同年8月27日には、念仏宗の信徒に襲われ松葉ヶ谷の庵を焼かれ、その翌年には念仏宗の訴えにより、悪口の罪により伊豆に流罪になりました。 文永8年(1272)、日蓮は捕えられ、9月12日、この龍口刑場で首を切られることになりました。首斬り役の衣知三郎が太刀を振り上げると、烈風強雨がおこり江ノ島の方向から光の玉が降りてき太刀を砕き役人は倒れたといいます。同時に鎌倉でも不思議なことがおこり、日蓮の処刑は止められました。そして日蓮は佐渡に流されました。 以来、龍口は日蓮宗の霊場となりました。 <<仁王門>> 国道、五差路に面して仁王門が立っています。昭和48年(1973)に建てられたものです。 <<山門と山門の彫刻>> 仁王門を入ると石段の上に山門が見えます。山門には中国の故事をモチーフにした彫刻が飾られています。 |
龍口寺 仁王門 | 龍口寺 山門 | 龍口寺 山門の彫刻 | ||||
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龍口寺 山門の彫刻 | 龍口寺 山門の彫刻 | 龍口寺 山門の彫刻 | ||||
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<<本堂(敷皮堂)>>
欅作り銅板葺の建物で天保三年(1832)の建立です。敷皮石を安置することから「敷皮堂」ともいいます。 本尊は一塔両尊(いっとうりょうそん)です。 日法作の日蓮聖人像、六老僧(日昭、日郎、日興、日向、日頂、日持)の木像などが安置されています。 伽藍には、他に、敷皮石(しきがわいし)や鍋蓋曼荼羅(なべぶたまんだら)など、日蓮ゆかりのものが霊宝としてつたえられ大切に置かれています。 敷皮石は、龍口法難のおり斬首されようとした日蓮が座らせられていた石で、上に敷皮が敷かれていたことからそのように呼ばれています。 鍋蓋曼荼羅は、龍口法難のおり刑場にひかれていく日蓮に桟敷(さじき)の尼がごまのぼた餅を鍋蓋の上にのせて捧げたといういい伝えのものです。なお、桟敷の地にはのちに常栄寺(ぼたもち寺)(現存 鎌倉比企ヶ谷)が建立されました。 ( 常栄寺(ぼたもち寺) のページへ) <<土牢(御霊窟>> 龍口法難のおり、捕えられ護送されてきた日蓮が入れられたといいます。 <<五重塔>> 明治43年(1910)建立されました。神奈川県唯一の木造五重塔です。くぎを使わない組み込み式で造られたもので、関東大震災でも倒壊しなかったといいます。 <<仏舎利塔(ぶっしゃりとう)>> 昭和45年(1971年)9月12日、龍口法難700年を記念し建立されました。 <<境内から望む相模湾>> 境内、仏舎利塔付近から相模湾の景色が楽しめます。 <<(旧)龍口明神社(りゅうこうみょうじんしゃ)>> 龍口寺に燐して龍口明神社がありました。昭和53年(1978)、湘南モノレール西鎌倉駅付近の地に移されました。龍口には現在もそのまま旧社殿、鳥居が残されています。 |
龍口寺 本堂 | 龍口寺 土牢(御霊窟) | 龍口寺 五重塔 | ||||
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龍口寺 仏舎利塔 | 境内から相模湾を望む | (旧)龍口明神社 社殿 | ||||
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