鎌倉(鎌倉郡)の歴史   
     サバ神社 の謎  を推測する  
     源義朝 源満仲 左馬頭  左馬神社 鯖神社 佐婆神社  佐波神社    
    
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 神奈川県東部を流れる境川の中流域に,点在して源義朝(みなもとのよしとも)(左馬頭:サマノカミ,サバノカミ)を祀る神社があります。これらは総称して「サバ神社」と呼ばれています。
 存在する地域は境川ぞいで、現存するものは12社、うち泉川(境川の支流)ぞい3社(泉川ぞいの3社は源満仲(左馬権頭・左馬介)を祀っています)、引地台川(境川の西側1Kmほどのところを平行して流れている)ぞい1社となっています。およそ南北10km,東西3kmの範囲に12社すべてが入ってしまいます。なお、江戸時代にはもう1社、東俣野(現在の横浜市戸塚区の俣野と東俣野をあわせた地域)に在ったといわれています。
 「サバ」の音は、表記する場合は「左馬」「鯖」「佐波」「左婆」「佐婆」などの文字になります。
 これらのことは、この神社グループの特異な特徴です。
 また、神社の規模も中又は小規模であり、残っている文献も少なく、謎の多い神社といわれています。
 ここでは、サバ神社に関する謎にせまり、推測してみます。
 
 現存するサバ神社に位置と名称に関しては,次のページを参照してください。

  サバ神社 (現存する12社) (相模の国に点在する不思議な神社,サバ神社の位置と名称)
 
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       それぞれの「サバ神社」には,様々な「サバ」の音を表す文字がある。中には村名が神社の名称になったところもある。(七ツ木神社:(旧)七ツ木村),(飯田神社:(旧)上飯田村)
 
 
   
鯖神社 (今田)
佐波神社 (石川)
七ツ木神社 (高倉)  
 
 

 

 

 
 

 


 


 

 

 
鯖社(鯖明神社) (下飯田) 鯖神社 (鍋屋) 左婆(佐婆)神社 (神田)  
 



    サバ神社の謎 とは          
<謎の(1) なぜ源義朝を祀るのか>
 源義朝(みなもとのよしとも)は、鎌倉幕府を創始した源頼朝(みなもとのよりとも)の父にあたる人物で、保元・平治の乱で活躍した武将です。
 しかし、歴史上ではそれほど注目を集めるような重要な人物とも思えません。では、なぜ後世の人々によって、源義朝を主神とする神社が創建され、そして祀られるようになったのでしょうか。それが不思議なことであり、謎なのです。
 また、いつ頃だれによって源義朝が祀られるようになったのか。といったことも謎なのです。

<謎の(2) なぜ地域が限定されているのか>
 サバ神社がある地域は、境川中流域に限られています。しかも集中しています。それはなぜなのでしょう。
 国内の他の地域にはこのグループに属すると思われる神社や類似した神社は存在しないようです。

<謎の(3) なぜ神社の名称がいろいろ在るのか>
 源義朝(または、源満仲)を祀っていることから、義朝が左馬頭(サマノカミ;サバノカミ)という役職にあったことから左馬神社(サバじんじゃ)と言われるようになったとされています。(これも仮説ですが) では、なぜ音は同じでありながら色々な名称(表記)があるのでしょう。

<謎の(4) なぜ泉川ぞいの3社のみ源満仲を祀をるのか>
 ほとんどのサバ神社は、源義朝を祀っているのですが、泉川沿いの3社は源満仲(みなもとのみつなか)を祀っています。それはなぜなのでしょう。

<謎の(5) なぜ七鯖参りは行われるようになったのか>
 昔(江戸中期 〜 明治初期 のころと思われる)、 境川流域の村々では、疫病が流行すると境川流域に点在する7つのサバ神社をまわり厄除け,疫病払いをする民俗信仰がありました。それを「七鯖参り」といいました。まわる神社やまわる順番は,それぞれの村や地域によって決まっていたようです。  一見、源義朝(または、源満仲)を祀っていることと無関係なようにも思えます。では、なぜ「七鯖参り」はおこなわれるようになったのでしょう。



    
    サバ神社の謎を推測する (いくつもある仮説を参考にして)    

< いつ頃 誰によって創建されたのか >
    
 これらの神社の中で,飯田神社(上飯田),鯖社(下飯田),左馬神社 (中の宮:和泉)の3社 の創建は特段に古く,鎌倉時代中期には在ったと言われています。
 鎌倉時代の初期〜中期,この地を治めていたのは飯田氏です。そこでサバ神社の創建に飯田氏が関わっているとする説が浮かんできます。
 飯田氏がこの地を得る前は,大庭氏がこの周辺を広く所領としていました。その頃,飯田氏は大庭氏に組み入れられていたと思われます。そんな中,独立する機会をうかがっていたのかも知れません。
 そんな折,伊豆に流されていた源頼朝(みなもとのよりとも)が挙兵しました。頼朝は源義朝(みなもとのよしとも)の嫡子で血筋がら源氏の棟梁にあたります。頼朝は三百騎を率いて石橋山に陣を張りました。それを平氏が発した頼朝追討の意を受けた大庭景親(おおばかげちか)率いる追討軍三千騎が攻めました。追討軍の中には源氏に心寄せる武将も多くいたといいます。飯田五郎家義(いいだごろういえよし)(飯田氏)もそんな一人であったのかもしれません。
 追討軍の攻撃に頼朝軍は崩壊しました。頼朝は敗走し,それを追討部隊が捜索をしました。そして敗走する頼朝一行はその追討部隊の一つに見つかってしまいました。その絶体絶命の窮地を救ったのが飯田五郎家義です。家義は追討軍にいたのですが,その機に,手勢6騎を率いて追討軍に攻撃をしかけ頼朝一行を山中に逃がしたといいます。  九死に一生を得た頼朝一行は,山中をさまよった後,真鶴(現在の)の岩浦から船で海に出,逃れ,安房に向かいました。そして安房から上総,下総と軍勢を集め,鎌倉に入ったときは,関東のほとんどの武将が頼朝の元に参じ,総勢は五万に膨らんでいたといいます。
 その後,家義は富士川の合戦でも手柄を立て,頼朝の信任を厚くしたといいます。
 そんなことから,家義(飯田氏)は現在の飯田のあたりを所領として独立を果たしたというのです。
 飯田氏は,所領の鎮守として神社を創建し,恩のある源氏の棟梁を主神としたというのが,サバ神社の始まりではないかということです。
    
< 上記の三社以外は いつ頃 誰によって創建されたのか >     
 上記した 飯田神社(上飯田),鯖社(下飯田),左馬神社 (中の宮:和泉)の3社 の創建は特段に古く,鎌倉時代中期には在ったと言われています。他のサバ神社が創建されたのは,戦国時代終わりから江戸中期の頃です。
 戦国の世が終わり,世の中も安定してきて,人口が増え,新しい村ができ,それぞれ村の鎮守なりとして神社が創建されたのでしょう。そんな時,近くのすでにあるサバ神社から勧請してきたとしても自然なことでしょう。まだ武士の世の中になっていたこと,地域がら西国のように古いしきたりに縛られないことなどから,武士を主神とする神社が創建されたのではないでしょうか。
 地域が限定されているの理由もそんなことからではないでしょうか。
    
< サバ神社には,前身となる神社があった: なぜ,神社名にサバという音があるのか >
    
 古代から,水の湧き出るところや小さな沢を神聖なところとして崇めることがあったようです。
 そのような所を”沢””澤”といい,音は”サワ”になります。
 サワにある神社ということでサワ神社と呼ばれたという仮設もあります。
 他の地域にも,わずか数例でが”サワ”やそれに近い音をもつ神社があります。
 また,サバ神社の中でも,特に創建が古いと考えられている飯田神社は,柳明あたりにあった神社を移してきたと考えられています。柳明の水辺にあった神社がその前身ではないでしょうか。そしてそのころは,義朝を祀るサバ神社ではなく,おそらく神明社などだったのではないでしょうか。それが遷座,合祀を重ね,武士の世になり義朝(左馬頭)を主神とするサバ神社に変貌していったのではないでしょうか。
 実際,サバ神社の多くには,遷座,合祀の跡が確認できます。(サバ神社に限りませんが)
    
< ”サバ”の音になぜいろいろな表記があるのか >
    
 和泉の旧村社である仲の宮社伝には創建に関してこんな文言があるといいます。「源氏の隆盛のころの」。このことからは仲の宮の創建時期として平安末期から鎌倉初期を想定できるかと思います。
 また,こんな文言もあるといいます。「北条の世に訛りて鯖にした」。このことからは,「北条氏が勢力を持ち,源氏の棟梁を主神とし社名とすることがはばかれるようになったので,表記だけでも変えて,社名をわざと鯖にした。」ということのようです。
 それぞれの時代や地域によって,その時々の人々や支配者の都合によって,社名や表記を変えざるを得なかったということなのでしょう。
    
< なぜ泉川ぞいの3社だけ,源満仲(みなもとのみつなか)を祀っているのか >
    
 江戸期に,泉川沿いを所領としていたのは松平家です。能見松平の家系で徳川家康(徳川幕府の創始者)の松平家とは親戚にあたります。
 徳川家・松平家は源氏を名乗っていますが,その祖に義朝は入りません。その祖となるとさらに頼義まで数代さかのぼらなければなりません。さらにその数代前の満仲までさかのぼると江戸期当時のより多くの武将がその家系におさまるのです。
 そんな訳で,当時の支配者である徳川家や松平家には義朝より満仲を祀るほうが都合がよかったのではないでしょうか。
 ということで,主神をすげ替えたのではないでしょうか。
    
< なぜ七サバ参りが行われるようになったのか >
    
 源義朝は,この地(現在の藤沢,鎌倉付近)を拠点にして勢力の拡大を図りました。その折,この地の武士たちを率いてかなりの乱暴,ろうぜきを行ったといいます。例えば,大庭御厨(おおばみくりや:伊勢神宮の所領)侵入事件では,義朝一行は大庭御厨(御厨:地方の有力豪族等が農地を開墾し不輸不入の権を得るため有力な寺社等にその土地を寄付し、開墾者は実質的な領主の地位を保つ。”荘園”の寺社版のようなもの)に侵入し境界の杭を抜き,収穫物を略奪し,神官を撲殺したり溺死させたりしたといいます。そうして力を蓄え,やがて京に上り,保元・平治の乱の渦中へと巻き込まれていくことになるのです。
 ところで,”七サバ参り”が行われるようになったと思われるのは江戸中期以降です。このころ疱瘡などの疫病は疫病の神が人や家に取り付きおこると信じられていました。そこで疫病の神も恐れるような強い荒くれの武士の神様にお願いし疫病の神を退散させようという信仰につながったと考えることができます。
 また鯖(サバ)という魚は薬効があるとも考えられていました。
 また”七”という数字は宗教の上で特別な意味があり,例えば”七福神”などのように縁起のよい数字とされてきました。
 そんなことから”七サバ参り”が行われるようになったのではないでしょうか。
    

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