泉区 (旧鎌倉郡) の歴史を訪ねて    
        御霊神社 ( 中田 )        横浜市 泉区 中田        
   相模国に点在する御霊神社の一つ   
    
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   横浜市泉区中田に御霊神社(ごりょうじんじゃ)があります。御霊神社(中田)は鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)を祀る古社です。
 相模国(さがみのくに)に点在する御霊神社の一つです。
 

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  << アプローチ >>    
    横浜市営地下鉄 中田駅より 北東方向に  800mほど  
 



   御霊神社 (ごりょうじんじゃ) (中田)               
       
御霊神社(中田) 画像 御霊神社(中田) 画像 御霊神社(中田) 画像  
御霊神社(中田) 鳥居から社殿へ 御霊神社(中田) 社殿 御霊神社(中田)  
 
     
<<祭神>>
  日本武尊(やまとたけるのみこと)
  鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)

<<例祭>>
  9月第4日曜日

<<由緒 等>>
 詳しいことは分かっていません。
 相模国(さがみのくに)に点在するいくつもの御霊神社の本宮は藤沢市宮前にある御霊神社(藤沢市宮前)です。そこに伝わる古文書「御霊宮来由(ごりょうぐうらいゆ)」(仁安2年(1164)記)に「葛乃(くずの)」という地名があり、分社したと記されているといいます。「葛乃」とは現横浜市泉区の「中田」と周辺をあわせた辺りになります。したがってこの記載にある神社が現「御霊神社(中田)」とみてよいでしょう。
 このことから1164年以前にすでに「御霊神社(中田)」は本宮の「御霊神社(藤沢市宮前)」から勧請し、創建されていたことになります。また鎌倉党のだれかが、この地の開発、開墾にあたり鎌倉党の祖である鎌倉権五郎景政を祀る御霊神社をこの地の鎮守として勧請し、創建したと考えられます。
 なお、これら相模の国の御霊神社は、怨霊信仰をおこなう御霊神社(京の御霊神社など)との関わりは薄いと思われます。宮前の御霊神社は平良文(たいらのよしふみ)が京の御霊神社を勧請したとされていますが、京風の怨霊信仰の習俗などは伝わっていません。

 本宮の御霊神社(宮前 :現 藤沢市宮前)、および鎌倉権五郎景政に関して、以下のページを参照してください。
 御霊神社(藤沢宮前)  のページへ
 御霊神社(鎌倉坂下)  のページへ

<<鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)>>
 鎌倉権五郎景政(平景正)は,平良文(たいらのよしふみ)の子孫といわれています(他説もあります)。一代前の景成の時から鎌倉氏を名のったといいます。源義家(みなもとのよしいえ)に従って後三年の役(1083〜 87)に活躍した武士です。金沢の柵(秋田県横手市)の戦いにわずか十六才で敵の大軍と戦い右目(文献によっては左目ともあります)に矢を受けました。それを見た味方の三浦の平太郎為継(ためつぐ)が土足で景政の顔を踏んで矢を抜こうとしたところ,景政は仰向けのまま為継の鎧の草ずりをつかみ,刀を抜いて刺そうとしました。驚いた為継に対して「弓矢にあたって死ぬのは武士の望むところだが,生きながら足で顔を踏まれるは恥辱である。」と言ったといいます。これには勇猛で名をはせた為継も舌をまいたといいます。  矢を受けたとき,景政はそのまま抜かずに矢を射った鳥海弥三郎を討ち取ったといいます。
 その後、二十年ほど景政の名は史上に現れませんが、のち相模国に姿を現しました。大庭郷に落ち着き、重税に耐えかね土地を離れ浮浪していた多くの民を招き入れ荒地の開墾を始めました。その懇田が大庭郷周辺の荘園(しょうえん)や御厨(みくりや)を造り、のちの鎌倉党を支えました。
※ (大庭郷 ーー 現在の藤沢市とその周辺を広く含む地域)

<<鎌倉党と大庭郷の開発・開墾と御霊神社>>
 大庭郷周辺を開発・開墾してできた懇田は伊勢神宮に寄進され大庭御厨(おおばみくりや:伊勢神宮の所領)が成立しました(永久4年(1116))。(御厨(みくりや):開発した懇田などを有力な寺社に寄進し不輸・不入の権利を得て開発主は実質的な領主に治まり、寄進した懇田は寺社の所領となり御厨と呼ばれた。)
 大庭御厨等の諸郷は分給され景政の子孫に引き継がれました。かれらはそれぞれ、大庭(大場)氏、懐島氏、俣野氏、長尾氏 などを名のりました。
 鎌倉党とは平安末期頃に相模国大庭郷周辺に勢力を持った武士集団で、およそ、大庭(大場)氏、懐島氏、俣野氏、長尾氏、さらに 村岡氏、鎌倉氏、梶原氏を名のる諸氏をいいます。
 鎌倉党の諸氏は、それぞれの所領に、その地の鎮守として、一族の租を祀る御霊神社を創建し祀ったと考えられます。また大庭御厨成立以後も鎌倉党の一族による開発・開墾は続けられ、その地にも同じように御霊神社が創建され祀られていったと考えられます。
    
       
御霊神社(中田) 画像 御霊神社(中田) 画像 御霊神社(中田) 画像  
社殿 御霊神社(中田) 社殿内部 御霊神社(中田) 神輿庫・他 御霊神社(中田)  
 
     
<<社殿>>
 社殿は享保11年(1726)に再興されたといいます。しかし関東大震災で倒壊し、その主要部分を再利用し翌大正13年9月に現在の本殿が再建されました。さらに昭和7年に拝殿、渡殿など新築され、社殿となっています。

<<神輿庫>>
 社殿右側にある小さな瓦葺きの建物が神輿庫です。終戦まで中和田小学校の奉安殿であったものを一部移築して保存したものです。大正十五年に現在の中和田小学校校地に建てられ以来、天皇皇后両陛下の御真影を収めておく建物でした。現在は神輿庫として使われています。

<<神楽殿>>
 社殿に向かい、右側手前に神楽殿が建っています。昭和22年の建造です。
    
       
御霊神社(中田) 画像 御霊神社(中田) 画像 御霊神社(中田) 画像  
神楽殿 御霊神社(中田) 神楽殿(例祭時) 御霊神社(中田) 神楽殿まえから 御霊神社(中田)  
 
     
       
御霊神社(中田) 画像 御霊神社(中田) 画像 御霊神社(中田) 画像  
狛犬 御霊神社(中田) 狛犬 御霊神社(中田) 社殿前から鳥居方向 御霊神社(中田)  
 
     

<<村岡川(宇田川)水源、弁天池>>
 本社の鳥居から社殿に向かう参道の右側に、村岡川源流という弁天池があります。弁天池の傍らには石碑が建ちそこに「弁天の湧水 村岡川源流」と記されています。村岡川とは宇田川の別名です。弁天池に湧いた水は流れ出て宇田川となって境川に合流し相模湾に流れ入ります。
 弁天池には、厳島神社(境内社)が祀られています。
 弁天池のすぐわきに「ふどうばし」がかかり、そこにも「村岡川源流」と記されています。
    
       
御霊神社(中田) 画像 御霊神社(中田) 画像 御霊神社(中田) 画像  
弁天池と厳島神社 御霊神社(中田) 弁天池 御霊神社(中田) ふどうばし 御霊神社(中田)  
 
     

<<寛文六年 庚申塔>>
 本社の鳥居から社殿に向かう参道わき、弁天池の傍らに、寛文六年(1666) 庚申塔が建ちます。寛文六年建立の笠付角柱庚申塔で泉区内で最も古い庚申塔といわれています。
 横浜市指定有形文化財に指定されています。
    
       
御霊神社(中田) 画像 御霊神社(中田) 画像 御霊神社(中田) 画像  
寛文庚申塔 御霊神社(中田) 寛文庚申塔 御霊神社(中田) 寛文庚申塔解説板 御霊神社(中田)  
 
     

<<庚申塔(大山道道標)>>
 弁天池の傍らに、寛文庚申塔と並んで大山道道標を兼ねた庚申塔も建っています。嘉永六年(1852)に中田東二丁目1697番地に建立されたものを、その後開発によりこの境内に移築したとのことが解説板に記されています。 
    
     
御霊神社(中田) 画像 御霊神社(中田) 画像  
庚申塔(大山道道標) 御霊神社(中田) 庚申塔(大山道道標)解説板 御霊神社(中田)  
 
   

<<境内社>>
 社殿の向かって右側に境内社が並びます。「矢並稲荷社」「大日大聖不動社」「日枝山王社」「金比羅社」、石廟数基。
    
     
御霊神社(中田)狛犬 画像 御霊神社(中田) 画像  
矢並稲荷社 御霊神社(中田)境内社 大日大聖不動社 御霊神社(中田)境内社  
 
   

     
御霊神社(中田)狛犬 画像 御霊神社(中田) 画像  
日枝山王社と金比羅社 御霊神社(中田)境内社 石廟 御霊神社(中田)境内社  
 
   

<<山岳信仰碑と起立講遥拝所(きりゅうこうようはいしょ)>>
 本社鳥居前の右手に石段が山を上っています。この石段の上り口に建つ石柱には「木曾御嶽神社」とあります。この石段を上ると起立講(きりゅうこう)の御嶽山遥拝所(おんたけさんようはいしょ)に至ります。各地に残る山岳信仰の場の一つです。
 遥拝所には山岳信仰碑が立ち並んでいます。向かって左に板石碑が建ち、「國常立尊」(くにとこたちのみこと)、「三笠山神社」、「御嶽山神社」、「八海山神社」と刻まれています。その右わきに、大黒天像がありその台座には「起立講中」と刻まれています。その右わきに板石碑が建ちそこには「神武天皇白川神社」とあります。
 起立講とは木曾の御嶽山を信仰する山岳信仰をおこなう集まりです。この御嶽山遥拝所でお参りし、また木曾の御嶽山に登りお参りをしています。
    
       
御霊神社(中田) 画像 御霊神社(中田) 画像 御霊神社(中田) 画像  
起立講遥拝所への石段 御霊神社(中田) 石塔 御霊神社(中田) 山岳信仰碑と起立講遥拝所 御霊神社(中田)  
 
     

<<實相院(じっそういん)の廃祀と神仏分離>>
 明治初めの神仏分離までは、この地に實相院(じっそういん)という真言密教系の寺院がありました。堂宇があった場所は、御霊神社の鳥居前南東側と思われます。それまで御霊社(現 御霊神社)は實相院持とされていました。
 それまでの神仏混淆の時代には、上記した弁天池付近は真言密教系の行者の修練の行場となっていたといいます。また上記した境内社「大日大聖不動社」「日枝山王社」「金比羅社」はその修練の行場に祀られていたものを再興したものといいます。
 その後、明治政府の神仏分離政策による廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって、堂宇は撤去され、實相院は廃祀(はいし)となりました。
    




   例大祭         御霊神社 (ごりょうじんじゃ) (中田)       

 例大祭は、9月の第4日曜に行われます。
 今年(2015)は、9月27日(日)に行われました。御神輿が出て、東回りで地域めぐり渡御(とぎょ)が行われました(御神輿渡御(とぎょ)が行われるのは2年に一度、回り方は年によって異なり東回りと西回りが交互に行われる。)。
 午前11半ころ、町内会や例祭関係者の挨拶があり、境内にいる人たちにお神酒がふるまわれました。12時ころ、山車、神輿が動きだし、社殿前の広場を一回りほどし、山車は参道脇の傾斜道を降りていきました。神輿は参道の急な石段を担ぎ下ろされていきました。鳥居を出ると、山車、神輿(大)、神輿(小)の順に神幸が進みました。神幸が御霊神社に戻ってくるのは夕方暗くなった、午後七時ころになります。
    
       
御霊神社(中田) 画像 御霊神社(中田) 画像 御霊神社(中田) 画像  
社殿前に並ぶ御神輿 境内をまわる山車と御神輿 参道石段を降りる御神輿  
 
     

       
御霊神社(中田) 画像 御霊神社(中田) 画像 御霊神社(中田) 画像  
参道(境内外)を行く山車と御神輿 夜見世が並ぶ、境内外の参道 御旅所、白百合公園にて  
 
     

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