|
|
江ノ島電鉄(江ノ電)の極楽寺駅から駅前の道を南西方向へ七里ヶ浜海岸沿いの国道134号との交差点(稲村ヶ崎駅入口)までおよそ900mほど、いくつか史跡旧跡が点在して在ります。それらを訪ねながら歩いてみます。
(江ノ島電鉄極楽寺検車区 阿仏尼邸跡 月影ガ谷 陣鐘山 針磨橋 日蓮袈裟掛松跡 十一人塚 など) |
もどる | すすむ | 鎌倉と鎌倉郡の歴史 indexへ |
<< アプローチ >> |
江ノ島電鉄極楽寺駅 より 徒歩 |
・江ノ島電鉄極楽寺駅 より 七里ヶ浜の稲村ヶ崎入り口交差点まで およそ900m
|
<< 江ノ島電鉄(江ノ電)極楽寺駅と駅前の道について、「極楽寺坂切通」へ続く道 >>
江ノ島電鉄(江ノ電)の極楽寺駅は極楽寺(霊鷲山 感応院 極楽寺)の門前にある駅です。駅の改札口は寺門の線路を挟んだ反対側にあり、線路沿いの道路に面しています。駅前の道は、南西方向へはおよそ900mで七里ヶ浜沿いをはしる国道134号との交差点(稲村ヶ崎駅入口)へ続いています。反対方向は北東方向(鎌倉方向)へ100mほどで東方向に極楽寺坂切通を下り由比ヶ浜の坂ノ下へ続いています。 「極楽寺坂切通」の道、極楽寺駅から鎌倉方向については、 成就院から虚空蔵堂、星の井へ(極楽寺坂周辺をめぐる) のページへ ここでは、極楽寺駅前から南西方向へ七里ヶ浜海岸沿いの国道134号とのまでおよそ900mほど、史跡旧跡を訪ねながら歩いてみます。 (江ノ島電鉄極楽寺検車区 阿仏尼邸跡 針磨橋 日蓮袈裟掛松跡 十一人塚 など) |
極楽寺駅 | 江ノ島電鉄極楽寺検車区 | 極楽寺駅付近 | ||||
|
<< 「阿仏尼邸(あぶつにてい)跡」の石碑 まで >>
江ノ電鉄極楽寺駅前から南西に七里ヶ浜海岸方向に150mほど進むと右に分岐する道があります。この道とは100mほど先、針摺橋でまた合流します。右に曲がり分岐した側の道を進みます。すぐに江ノ電の線路脇に出ます。この場所から「江ノ島電鉄極楽寺検車区」(車庫)内が見わたせます。 線路沿いに進みます。この辺りは線路と線路沿いの道路との境に柵やガードレールなどなく、いかにも江ノ電沿線らしい趣があります。 この先、右手に江ノ電の線路を渡る踏切があります。右折し踏切を渡った左脇に「阿仏尼邸跡」の石碑が建ちます。 |
阿仏尼邸(あぶつにてい)跡 と 月影ガ谷(つきかげがやつ) |
分岐した道、「阿仏尼邸跡」の石碑が建つ脇の踏切を渡った道は谷(やつ)の奥へ続いています。この谷(やつ)が月影ガ谷(つきかげがやつ)です。
踏切渡った左脇に建つ石碑には「阿仏邸旧跡」とあります。その傍らには俳人戸川稲村(とうそん)の「月影の谷若葉して道清し」の句碑が建っています。 戸川稲村は、高浜虚子(たかはまきょし; 明治から昭和期の俳人、小説家)に師事した俳人です。 阿仏尼(あぶつに; 鎌倉時代中期の女流歌人)は「十六夜日記(いざよいにっき)」の作者で、京から鎌倉に下りこの月影ガ谷に住んだと云います。 十六夜日記には「東(あづま)にて住むところは、月影(つきかげ)の谷(やつ)とぞいうなる。浦近き山もとにて、風いと荒し、山寺の傍らなれば、のどかにすごくて、波の音松風絶えず」とあり、そのことが記されています。なお、文中の「山寺」とは極楽寺のことです。 << 阿仏尼(あぶつに; 貞応元年(1222)ころ - 弘安6年4月8日(1283,5月6日))>> 阿仏尼は鎌倉時代中期の女流歌人で、若くしては安嘉門院(あんかもんいん; 後高倉院皇女邦子内親王)に仕えたので安嘉門院四条(あんかもんいんのしじょう)といいました。のち、藤原為家(ためいえ; 藤原定家(ていか\さだいえ; 鎌倉時代初期の公家で著名な歌人)の子)の側室になりました。為相(ためすけ; 冷泉家(れいぜいけ)の祖)、為守らを産みました。 夫の為家が亡くなると、為家の長男で嫡流の為氏(ためうじ; 二条為氏、正室の子)と播磨国細川荘((現)兵庫県三木市)の相続をめぐって争うことになりました。そして、鎌倉幕府に訴え訴訟を起こすため、弘安2年(1279)京を発ち鎌倉へ下りました。その時の紀行と翌年秋までの鎌倉での滞在記が十六夜日記(いざよいにっき)です。 その後、訴訟は進展せず、阿仏尼は弘安6年(1283)に没しました。訴訟はその後も二条家と冷泉家の間で引き継がれ争われ、阿仏尼が没したおよそ30年後の正和2年(1313)、為相(阿仏尼側、冷泉家側)の勝訴が確定しました。 |
月影ガ谷付近 | 月影ガ谷 | 月影ガ谷 阿仏尼邸跡の碑 | ||||
|
針磨橋(はりすりばし) |
踏切の手前に戻り、元来た道をさらに先へ進みます。わずかで針磨橋のある四辻に出ます。極楽寺川に架かる橋で片側が暗渠になっています。傍らに「針摺橋」の石碑が建っています。
鎌倉十橋の一つにかぞえられています。昔、近くに針を造る(磨る)ことを業とする者が住んでいたと伝わります。また、針を造る老婆が住んでいたとも、我入道(がにゅうどう)という針を磨く僧が住んでいたとも伝わります。 なお、橋が架かる極楽寺川の下流では良質の砂鉄が採れたといいます。そのこともいわれに関係があるのかもしれません。 四辻の北東方向の道は、極楽寺駅前を通り極楽寺坂へつながる道です。反対方向、南西方向の道は七里ガ浜方面、国道134号との交差点稲村ヶ崎駅入口へ向かいます。北西方向の道は阿仏尼邸跡、月影ガ谷方面へ向かいます。南東方向の道は、霊山山(りょうぜんざん)南側の小さな谷(やつ)に入っていきます。霊山山には、昔(鎌倉時代ころ)、仏法寺(霊山寺ともいう)という寺院がありました。この谷(やつ)には針磨橋付近から道がのびていて、その道に面して仏法寺の大門が建っていました。そこから参道がのびていました。霊山山周辺、仏法寺その参道、大門は鎌倉幕府滅亡のとき新田義貞の鎌倉攻めのおり激戦の地になりました。 新田義貞の鎌倉攻めに関しては、 稲村ヶ崎 ・ 稲村ヶ崎古戦場 のページへ |
<< 陣鐘山(じんがねやま) について >>
針磨橋の西側後方、日蓮袈裟懸松跡からは北側後方の山は陣鐘山です。 鎌倉幕府滅亡のとき新田義貞の鎌倉攻めのおり、霊山山の北条方(幕府方)に対峙した新田方が陣を張ったと伝わります。山の名前は新田義貞が陣鐘を掛けたと云い伝えによります。 |
針磨橋 | 針磨橋 | 針磨橋付近 後方は霊山山 | ||||
|
日蓮袈裟懸松(にちれんけさがけまつ)跡 |
針摺橋から七里ヶ浜方面に進み150mほど、右側斜面の石垣に石塔が並び置かれてあるところが日蓮袈裟懸松(にちれんけさがけまつ)跡です。石塔には「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩 御袈裟懸松」と彫られています。
文永8年(1272)、日蓮は捕えられ、9月12日、龍口刑場で首を切られることになりました。刑場にひかれていく日蓮は、尊い袈裟が血で汚れぬよう脱いで松の枝に懸けたと云います。 そして処刑の時、首斬り役の衣知三郎が太刀を振り上げると、烈風強雨がおこり江ノ島の方向から光の玉が降りてき太刀を砕き役人は倒れたといいます。同時に鎌倉でも不思議なことがおこり、日蓮の処刑は止められました。そして日蓮は佐渡に流されました。 日蓮の法難、龍ノ口の奇跡に関しては、 龍口寺 日蓮の龍口法難の地 のページへ |
日蓮袈裟懸松跡 | 日蓮袈裟懸松跡 |
十一人塚(じゅういちにんつか) |
七里ヶ浜方向になお進むと、江ノ電の踏切を渡ります。踏切の右手(西方向)には江ノ電稲村ヶ崎駅のホームが見えます。道を進むとわずかで左手に、石碑、石塔が建つ十一人塚が現れます。
元弘3年(1333)、鎌倉幕府滅亡の時、新田義貞(にったよしさだ)の鎌倉攻めのおり、極楽寺坂方面軍の総大将で義貞の同族の大館宗氏(おおだてむなうじ)以下十一騎が討死にしました。 5月18日、義貞は軍を三つに分け、化粧坂、巨福呂坂、極楽寺坂の3方面から総攻撃を行いました。しかし守りの強固な切通(きりどおし)を破ることは出来ず総攻撃は失敗に終わりました。3つの軍は鎌倉の切通の防御を破ることができなかったのですが、極楽寺方面軍は一時的に北条方(鎌倉方)の防衛線を突破し、一部(宗氏、他)が前浜(由比ヶ浜)まで進むことができました。しかし北条方(鎌倉方)の予備軍(本間党; 本間山城左衛門(ほんまやましろのさえもん)率いる)が駆けつけ、新田方は敗走し七里ヶ浜へ戻りました。その時宗氏以下十一騎が討死しました。 討ち取られた十一人は、葬られそこが塚となりました。そして十一人の霊を弔うため十一面観音堂が建てられました。お堂はとうに無く(江戸期には無かったと云います)、十一人塚と呼ばれています。 新田義貞(にったよしさだ)の鎌倉攻め、稲村ヶ崎の戦い に関しては、 稲村ヶ崎 ・ 稲村ヶ崎古戦場 のページへ |
十一人塚 | 十一人塚 | 十一人塚 | ||||
|
<<七里ヶ浜へ>>
七里ガ浜方向進みます。50mほどで、七里ガ浜の海岸沿いをはしる国道134号の稲村ヶ崎駅入口交差点に出ます。海岸の左手(東方向)は間近に稲村ヶ崎がみえます。右手(西方向)へは七里ガ浜の海岸線が続き、その先に江ノ島が見えます。 |
七里ガ浜 | 七里ガ浜より稲村ヶ崎 | 稲村ヶ崎より七里ガ浜 | ||||
|
もどる | すすむ | 鎌倉と鎌倉郡の歴史 indexへ | このページの 上へ |