|
<<和田塚(わだづか)>>
和田塚は、和田合戦で和田方の戦死者を葬った塚と伝えられています。
元は古墳時代の高塚式円墳(たかつかしきえんぷん)で現在鎌倉に残る唯一のものです。近代、多くの墳墓が整理され壊されましたが、五輪塔を並べた和田塚は残りました。塚のまわりは削られ石垣が組まれています。
和田合戦は、健保元年(1213)5月に、和田義盛(わだよしもり)が幕府の実権を握っていた北条義時(ほうじょうよしとき)を討つため起こした戦いです。
同族の三浦義村(みうらよしむら)の裏切りにより、和田軍が敗北し、和田一族は滅亡しました。
<<和田義盛(わだよしもり)と三浦義村(みうらよしむら)>>
和田義盛は、三浦大輔義明(みうらだいすけよしあき)を祖父に持つ三浦党の有力な武将です。父の義宗は杉本を名乗り、義盛は和田を名乗りました。
祖父の義明は、源頼朝(みなもとのよりとも)が挙兵をしたとき、石橋山の合戦に参じようと兵をあげました。義盛もこれに加わりました。しかし石橋山の合戦に間に合わず、しかたなく三浦に引き返しました。義明は、このおりの畠山重忠との戦いで討ち死にしました。
義盛は、その後頼朝に仕え武功を重ねました。そして、鎌倉幕府の侍所(さむらいどころ)の別当(べっとう)になりました。全国の御家人を統率する重職です。
三浦義村も、三浦大輔義明を祖父に持つ武将です。三浦の名を引き継いだ三浦党の棟梁です。
鎌倉幕府最大勢力の三浦党の本家を継いだわけです。しかし和田義盛のような重職にはなく、また三浦の多くの支族(分家筋)が有力になり独立するきうんをみせるなど、立場や思いは微妙なものになっていたようです。
三浦大輔義明の討ち死に関しては「材木座を歩く (来迎寺)」のページを参照してください。
材木座を歩く のページへ
|
|