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横浜市泉区には,古道の柏尾通り大山道(かしおどおりおおやまみち) が通っていました。
柏尾通り大山道は,大山詣に利用された大山道の一つで、戸塚宿近くの柏尾の不動坂で東海道と分岐し,泉区を縦断し,長後,用田,本郷を抜け,相模川にかかる戸沢橋の南側にあったという戸田の渡しを経て,大山(おおやま)に至っていました。 |
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柏尾通り 大山道 (泉区内 部分)
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<< 大山詣 と 大山道 >> |
丹沢の東にそびえる大山(おおやま;1246m),そこにある阿夫利神社(あふりじんじゃ)には,雨乞いの神様が祭られています。
農民の間で,雨乞い詣でも行われました。 また,山上には,大山寺(だいせんじ)不動尊も祭られていました。(大山寺不動尊は明治時代の神仏分離によって大山の中腹に移されました。) 江戸時代になって,庶民の間で寺社参りが流行すると,大山詣に江戸方面から多くの参詣者が訪れるようになりました。 そのとき使われた道が 大山道 (おおやまみち) と呼ばれる道です。 そして,多くの大山道ができました。 |
<< 柏尾通り大山道 と 大山道 >> |
江戸や房総方面からは,こんな道順を辿る参詣者が多かったそうです。 『 戸塚宿付近の柏尾まで東海道をきて,ここから「柏尾通り大山道」を行き,大山詣をする。帰りは,「田村通り大山道」 を通り藤沢まで来る。(「田村通り大山道」は藤沢の四谷で東海道と分岐していました。) そこから,江ノ島道を通り江ノ島詣をする。(江ノ島には,弁天が祭られています。) さらには、「鎌倉」「金沢」方面まであしをのばす。 江戸方面に帰っていく。』 そんな訳で,「柏尾通り大山道」は,いくつもある大山道の中で,もっとも賑わったのです。 柏尾通り大山道の始点は柏尾の東海道からの分岐です。ここから阿久和川の右岸を川沿いに進み岡津橋まで来ます。岡津橋付近の不動橋のたもとで「ほしのや道」と分岐し西に折れ西田谷戸(にしだやと)という小さな谷戸(やと)へ入ります。なお岡津橋で分岐した「ほしのや道」は直進し阿久和川沿いに進みます。西田谷戸を奥まで進むと現在の桂坂公園に出ます。古の道はこの辺から傾斜を増し右側に山腹を迂回しながら上る「女坂」と急傾斜を直線的に上る「男坂」の二つにわかれ丘陵の上に向かっていました。現在の桂坂公園から国際親善病院にかけての辺りは西が岡の開発でかつての丘陵は削られその土で谷戸は埋められ平坦な住宅地になっています。かつての地形も道も残っていません。国際親善病院の西側はがけになっていてその上はかつての丘陵の部分が残りました。古の道はこの丘陵の上に続いていました。がけの北側際に沿って「女坂」少し南側の「むじな塚」の南側の畑の中を「男坂」が通っていてその先で合流していました。なお、「むじな塚」は最近削られ消失しました。合流した道は、さらに「郷境道(ごうざけえみち)」と合流して芝原に向かいます。芝原で鎌倉道とよばれている道を横切りいずみ小学校の前を通りその先で左におれ住宅地の中を進みます。泉区役所付近で長後街道をいったん横切り、もどって区役所の敷地内を通り和泉川を渡りました。和泉川を渡ると上り傾斜になり、上ったところで環状四号線を横切ります。環状四号線の辺りは古道鎌倉道上の道またはその支道が通っていたと思われているところです。そこは新田義貞の鎌倉攻めのおりの本隊が通ったところと推測されているところです。道はここから境川に向けて下っていきます。下りきると古道鎌倉道にでます。ここから古道鎌倉道をわずかに北上し無量寺のところから、西に向かい当時境川に架かっていたという千束橋を渡り藤沢に入ります。そこから長後,用田,本郷を抜け,相模川にかかる戸沢橋の南側にあったという戸田の渡しを経て,大山(おおやま)に至っていました。 <<関連するページ>> (東海道 戸塚宿 に関して ーー> 戸塚宿と周辺 ) (岡津橋周辺 に関して ーー> 岡津橋周辺 ) (ほしのや道に関して ーー> ほしのや道 と 大石堂道 に沿って ) (古道鎌倉道に関して ーー> 古道 鎌倉道に沿って ) |
<< 寺社参りの流行(江戸期)と講 >> |
江戸期も中頃になると、世の中も安定してきて、農村の生産性も上がり豪農といわれる人たちもあらわれ、庶民(農、工、商人)も豊かになってきました。
そういった人たちが、時間をつくり、また農閑期などを利用して、物見遊山の旅(現代でいうと「観光旅行」)をするようになりました。それが江戸期の「寺社参り」の流行につながりました。 ところで、江戸幕府は人々の通行や移動を厳しく制限していました。ところが、江戸中期になると「お伊勢参り」などの「寺社参り」は推奨されるようになりました。さらに、一般の庶民の旅を助けるシステムがありました。それは寺社のネットワークです。 江戸期の寺社は強大な権限をもち幕府の役所とのパイプももっていました。民衆は寺請制度のもとどこかしらの寺社に属することが義務づけられていて、寺社では現在の戸籍に当たる宗門人別帳が作成され、旅行や住居の移動の際にはその証文(寺請証文)が必要とされていました。寺社は住民の名、家族構成、資産、心情まで把握していたのです。さらに、全国の寺社間で広範囲のネットワークをもっていました。(明治時代になり、明治政府は、その強大な力を弱体化するために神仏分離を強行しました。) 庶民(住民)が、観光旅行をしようとした場合、居住地近くの住民や寺社などが企画した寺社参りの講(集団)に参加します。寺社は講の参加者の身元を保証し寺請証文の発行や通行手形の発行などの手続きの面倒を見ます。さらに旅先の手配まで行います。いわば、団体旅行を企画し、参加者を募集し、パスポート、ビザの手配まで行なう現代の旅行会社のようなものです。そういったわけで「講」(集団)をくんで「寺社参り」がおこなわれることも多かったのです。「寺社参り」の「講」をくむことによって、通行手形もとりやすくなり、また安全に安心に旅をすることもできたのです。 |
<< 柏尾通り大山道沿いの史跡 >> |
不動堂 ( 戸塚区 柏尾町 ) ( 地図 (1) ) |
東海道の不動坂交差点近く、柏尾川方向にわき道を少し下ったところに大山不動堂があります。
「柏尾通り大山道」はここで東海道からが分岐していました。この分岐点がこの古道の始点でした。 お堂の周りには,石の道標も残っています。 ここにある,道標などの石造物は,近年,付近にあったものが集められたと思われるとの説明があります。 |
不動堂 戸塚不動坂 | 不動堂 解説 |
岡津橋 付近 ( 地図 (2) ) |
柏尾通り大山道は岡津橋付近、阿久和川に架かる不動橋のたもとで「ほしのや道」と分岐し、西に折れ西田谷戸に入っていきます。
岡津橋付近には、比較的狭い範囲に「向導寺」「富士塚」「不動堂」「永明寺」などいくつもの歴史的文化財が集まって在ります。大山参詣の人たちも立ち寄ったと思われます。 詳しくは、以下のページへ (岡津橋周辺 に関しては ーー> 岡津橋周辺 ) (ほしのや道に関しては ーー> ほしのや道 と 大石堂道 に沿って ) |
向導寺 | 琴平神社 | 琴平神社 富士塚 | ||||
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永明寺と永明寺別院門前道標 ( 地図 (2) ) |
岡津橋バス停近くに岡津山永明寺(こうしんざんようめいじ)と 永明寺別院があります。
県道(瀬谷柏尾線)から不動橋を渡ったすぐの所に永明寺別院があり、永明寺はその西側の山上にあります。
柏尾通り大山道はここから山間の道を進みます。西田谷戸(にしだやと)といわれている小さな谷戸で少し前までは谷戸田が広がっていました。 永明寺別院の門前に不動明王像をのせた道標があり, 「 大山道, (右) ほしのや道 」 享保 十年(1725) とあります。その左にある石塔は,出羽三山供養塔です。 詳しくは、以下のページへ (岡津橋周辺 に関しては ーー> 岡津橋周辺 ) |
永明寺 | 永明寺別院 | 永明寺別院門前道標 | ||||
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西田谷戸 地神塔 ( 地図 (3) ) |
永明寺のまえから,静かな山あいの道を進みます,西田谷戸と呼ばれていたところです。 少し前までは谷戸田が広がっていました。
途中に,地神塔・道標と双体道祖神が在ります。 谷戸の奥まったところは坂下と呼ばれ,今は桂坂公園があります。公園の手前辺りから,道は丘陵の急坂を上っていました。その丘陵は開発によって削られ今はありません。 < 西田矢戸の 地神塔(大山道道標)と双体道祖神 > 地神塔 −− 「 (上り) 大山道, (下り) かしを道 」 安政二年(1855) 双体道祖神 −− 高さ-およそ 80センチメートル |
西田谷戸 | 地神塔・道標 西田谷戸 |
石塔・石仏 中川地区センター ( 地図 (4) ) |
柏尾通り大山道は,西田谷戸の坂下から男坂と女坂の2コースに分かれ丘陵の上部へ上っていました。
女坂は、北方向に急傾斜を迂回しながら桂坂公園の縁辺りをかすめ,スーパーいなげやの先で半円を描くように国際親善病院方向に向きを変えて丘陵上へのびていました。男坂は女坂の南側を直線的に坂を上って丘陵上へ出ていました。2つの道は国際親善病院の西側の高台までいって再び合流していました。 この区間は,少し前に大規模に開発され,西が岡と呼ばれるようになりました。山は削られ、その土で谷戸は埋められ宅地になりました。場所によっては高さで20メートルぐらい削られました。昔の道も道があったはずの地形も残っていません。桂坂公園と中川地区センターもそこに造られました。 中川地区センターの駐車場には,開発前の大山道沿いにあった石塔・石仏が数基置かれています。 なお、スーパーいなげやと国際親善病院の中ほどのところ、マンション前道路脇に道標1基が置かれています。こちらは、開発前の女坂にあったもので、十数メートルほど上方の水平位置でほぼ現在と同位置にあったものです。 |
石仏・石塔 中川地区センター | 石仏・石塔 中川地区センター | 石仏・石塔 中川地区センター | ||||
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石仏・石塔 中川地区センター | 石仏・石塔 中川地区センター | 石仏・石塔 西が岡 | ||||
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いなげやと国際親善病院の間 |
国際親善病院西側高台 むじな塚 ( 地図 (5) ) |
柏尾通り大山道は、国際親善病院の西側にある高台の上につながっていました。高台の東側( 西が岡側 )はすっかり削られてしまい,崖になっています。この場所は残りました。崖の下には国際親善病院があり、その建物の屋上はこの高台は同じくらいの高さです。古の道はその建物の屋上辺りを通っていました。
ここには「むじな塚」という塚がありました。畑の中こんもりとした塚で,高さ1.5メートルほど,東西に4メートルほどの小さなものでした。最近削られて消失してしまいました。 塚の上には、宝篋印塔と馬頭観音が祀られていました。 その塚の北側を女坂,南側を男坂が通り,少し西に行った辺りで合流していました。 女坂は,削られた崖の縁にそってある現在の道の辺りにありました。男坂は畑の中にやっと人が通れるような道が残っていたのですが,宅地化が進んで、そのようすも分からなくなってしまいました。 ※ むじな塚と周辺の写真は、2002年撮影のもので、その後、塚は消失しました。 < むじな塚の上の 石塔・石仏 > 宝篋印塔 −− 高さ-およそ 69センチメート 馬頭観音 −− 高さ-およそ 34センチメートル |
むじな塚 | 宝篋印塔 むじな塚 | 男坂 はたけの中の道 | ||||
※ 消失しました |
※ 消失しました | ※ 消失しました |
芝原 ( 地図 (6) ) |
柏尾通り大山道は芝原で「鎌倉道」と呼ばれている道を横切ります。この「鎌倉道」は「いわゆる「古道鎌倉道」」ではありませんが、江戸時代からの古道があったことは,庚申塔の記述からうかがえます。
『庚申塔』 −− 「「 (西) 大山道, (北) 八王子道, (南) ふじ沢道, (東) かしを道 」 文化六年(1809)」とあり。 芝原の交差点には休息所が整備されました。横浜市泉土木事務所による案内板があり、「柏尾通り大山道」の解説があります。 ここから和泉小学校門前を過ぎるところまで、拡張された広い農道を進みます。道は泉川に向かって,ゆっくり下っていきます。 |
休息所 芝原 | 道標 芝原 | 案内板 芝原 | ||||
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芝原から長後街道へ |
芝原から拡張された広い農道を進みます。和泉小学校の前を通り、その少し先で農道から分かれ左の住宅地に入る道をたどります。この分岐の東側畑の中に出羽三山供養塔があります。 住宅地内の道をたどると、道沿い右手に石塔(出羽三山供養塔など(崩れかかっている))が並んだところがあります。この辺には古道の「(いずみ)かんのん道」が通っていたと推測されています。かんのん道は「観音霊場鎌倉郡三十三カ所札所」の巡礼に使われた道です。 住宅地内の道を進み、泉区役所近くで長後街道に出て、長後街道をいったん横切ります。そこに神明社があります。 |
出羽三山供養塔 和泉 | 大山道 分岐を左へ | 石塔 住宅地内 | ||||
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神明社 泉区役所付近 ( 地図 (7) ) |
柏尾通り大山道は、泉区役所近くで長後街道に出ていったん横切ります。長後街道を渡ったところに,神明社あり,その傍ら道沿いに,蚕霊供養塔(蚕御霊神塔) と 庚申塔 が並んで置かれています。これらはは柏尾通り大山道の道標を兼ねているものがあります。
ここから,道は右(泉川方面)へ折れ,再び長後街道を渡り,泉区役所前の広場を横切り,泉川を渡っていました。 < 神明社 脇の 石造物 > (左)− 蚕御霊神塔 −− 高さ-およそ 130センチメートル、 明治11年(1878) 「大山道」とあります。 (中)− 庚申塔(道標) −− 高さ-およそ 100センチメートル、 万延元年(1860) 「右 大山道 左 藤沢道」とあります。 |
神明社 いずみ中央付近 | 蚕御霊神塔他 いずみ中央付近 | 庚申塔(道標) いずみ中央付近 | ||||
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泉区役所付近から古道鎌倉道へ |
大山道は、長後街道の和泉橋の北側にあったという橋で泉川を渡っていました。そこから道は傾斜を上り再び長後街道に合流し環状4号線を横切ります。環状4号線が通っているところは、「たつ道」とも「いくさ道」とよばれる古道かあったところです。古道の「かまくら道上の道」またはその支道が通っていたと推測されているところです。新田義貞の鎌倉攻めのおりは新田軍の本隊が通ったところと考えられています。
柏尾通り大山道は長後街道を進み、環状4号線から100mほどのところで、左手斜めにのびる道に入ります。すぐのところにけやき公園があり、さらに道は長後街道とほぼ並行して境川沿いにある古道かまくら道まで続いています。古道かまくら道と合流するあたりは「ごいん場」とよばれていたところです。 けやき公園の先で大山道から南側に200mほどそれたところに三柱神社があります。三柱神社にも大山道の道標が置かれています。 |
長後街道 いずみ中央付近 | 大山道とけやき公園 | 大山道 ごいん場 | ||||
区役所前から環状四号へ |
古道かまくら道との合流地点 |
三柱神社(みはしらじんじゃ) と 道標 |
庚申塔(道標、青面金剛像) 三柱神社 | 庚申塔(道標) 三柱神社 | 庚申塔(道標) 三柱神社 | ||||
典型的な形の青面金剛像 | 「此方 かしを道」とある | 「此方 大山道」とある |
無量寺(むりょうじ)(浄土宗) から 長後へ ( 地図 (8) ) |
泉川方面から丘陵を越えてきた柏尾通り大山道は古道鎌倉道に突き当たります。そこからわずかな間ですが古道鎌倉道を北上し無量寺(むりょうじ)の前まで来ます。そこで西に折れ古道鎌倉道を離れ、当時境川に架かっていたという千束橋を渡り藤沢に入ります。そこから長後,用田,本郷を抜け,相模川にかかる戸沢橋の南側にあったという戸田の渡しを経て,大山(おおやま)に至っていました。
無量寺は帰命山(きみょうざん)長寿院無量寺といい、江戸初期の創建と思われます。境内にある名号碑(みょうごうひ、念仏塔ともいわれる)の台座には「大山道」とあり道標を兼ねていました。台座は中ほどまで埋められていて読み取れません。その横には板碑が並んでおかれていて、それには弥陀三尊を表す梵字があります。大山詣の人々も立ち寄ったと思われます。 (古道鎌倉道に関しては ーー> 古道 鎌倉道に沿って ) |
無量寺 | 大いちょう・鐘楼 (無量寺) | 名号碑・板碑 (無量寺) | ||||
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