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江戸幕府は、江戸を中心に五街道を整備しました。その中で最も重要な道が江戸と上方(京都)を結ぶ東海道です。戸塚宿は東海道に開かれた宿場です。他の宿場(保土ヶ谷宿や神奈川宿など)より遅れて開かれましたが、多くの旅人に利用され大いに賑わいました。
現在の戸塚駅付近の国道1号(東海道)は新道(戸塚道路、ワンマン道路)が不動坂から大坂までの間を北側に迂回しています。戸塚宿はその間の旧道(旧東海道)側にありました。 |
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戸塚宿(とつかじゅく) と 旧東海道 戸塚 |
徳川家康が江戸(現 東京)に幕府を開き(1603年)、先んじて江戸を中心とした五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道)の整備が推められました。東海道の戸塚付近(現 横浜市)には、慶長6年(1601)に神奈川(かながわ)宿、保土ヶ谷(ほどがや)宿の宿場が設けられました。戸塚宿はそれに遅れ3年後、慶長9年(1604)に開かれました。
戸塚宿は、東海道五十三次の一つで日本橋から5番目の宿場です。日本橋から10里半(約42km)の距離にあります。江戸からほぼ1日の行程で、上方へ向かう旅人が初日の宿泊に利用することが多かったといいます。また、宿や付近には大山道、鎌倉道・江ノ島道などとの分岐もあり、多くの参詣、観光の人々も訪れ大いに賑わいました。 戸塚宿は、矢部町、吉田町、戸塚町(戸塚町はさらに六宿(大踏切側から、上宿、中宿、台宿、天王宿、田宿、八幡宿)に分かれていました)の三町からなっており、なかで大きな旅籠(はたご)屋や本陣(ほんじん:旗本や大名が利用する宿舎)が集中していた所は戸塚町の中宿から台宿(現在の バスセンターから海蔵院にかけてのあたり)のあたりです。本陣は2軒で中宿に内田本陣が、台宿に澤邉本陣があり、脇本陣は3軒ありました。問屋場(といやば:宿場を通行する大名や役人への人足や馬の手配、荷物の積替え、引継ぎ業務などを行なっていた)は、中宿、吉田町、矢部町の3ヶ所あり分担して業務を行なっていました。 <戸塚宿が賑わった理由> 東海道を旅する人々にとって、一番の難所は箱根越えです。8里(約32Km)ほどの急な山中の道ですがほぼ1日で踏破できます。しかし、峻険な山中で夕暮れを迎えることは危険もありさけたいことです。そこで上方へ向かう旅人の多くが早朝にふもとの小田原宿をたち夕暮れまでに箱根を越え三島宿(さらには次の宿場 沼津宿あたりまで)まで達するという行程をとったのです。 ところで小田原宿は江戸(日本橋)から20里ほどで、そのほぼ中間地点にあるのが戸塚宿です。そこで、1日目に戸塚宿、2日目に小田原宿に宿泊し箱根越えに備えればよいことになります。また戸塚宿は保土ヶ谷宿と藤沢宿の間にある宿場ですが、隣の保土ヶ谷宿との間には権太坂があり、反対側の藤沢宿との間には大坂・遊行寺坂があります。この2つの坂も難所で行き倒れる者もあったといいます。この2つの難所を1日で越えることは、日程や体力面で無理や危険が多かったのです。2つの難所を2日に分けて越えるようにするためには戸塚宿を利用することになります。 また、大山詣、坂東33ヶ所観音札所めぐり、鎌倉・江ノ島参りなどの人々も戸塚宿を利用しました。 大山(おおやま)へは戸塚宿付近まで東海道を来て、柏尾で分岐する「柏尾通り大山道(かしおどおりおおやまみち)」、矢部付近から分岐し郷境みち(ごうざけえみち)へ入る(「柏尾通り」に合流する)、中宿付近から分岐する「長後街道(ちょうごかいどう)」(「柏尾通り」に合流する)、などの道がありました。 ((大山道 と 柏尾通り大山道 については 次のページへ ーー> 柏尾通り 大山道 )) 坂東33ヶ所観音札所めぐりの巡礼道は、横浜の 第14番札所の「弘明寺観音(ぐみょうじかんのん):弘明寺(ぐみょうじ)」 と座間の 第8番札所の「ほしのや観音:星谷寺(しょうこくじ)」をむすぶ道が付近を通っていました。 弘明寺方面からは,”弘明寺道”を東海道の権太坂まで来て,そこから,”東海道”を柏尾まで来て,そこから”柏尾通り大山道”を岡津橋までたどり,そこから”ほしのや道”をたどり,瀬谷方面に抜け,”ほしのや”をめざします。 ((ほしのや道については 次のページへ ーー> ほしのや道 と 大石堂道 に沿って )) 鎌倉道・江ノ島道へは吉田橋のたもと、八坂神社付近、富塚八幡宮付近等から分岐していました。 |
<<旧東海道 戸塚宿を歩く 不動坂から大坂へ (主な旧跡、見どころ など)>>
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大山不動堂 (おおやまふどうどう) 旧東海道戸塚宿 付近 |
江戸方見付(えどかたみつけ)跡 旧東海道戸塚宿 |
スーパーダイエーの国道(旧東海道)に面した前に江戸方見付跡があります。石碑、解説板などが設置されています。
江戸方見附とは宿場の江戸方面側の出入り口のことです。戸塚宿はここから大坂下の上方見付(上方(京都)方面の出入り口)までの間ということになります。 |
戸塚宿 江戸方見付跡 | 戸塚宿 江戸方見付跡 解説 | 戸塚宿 江戸方見付付近 | ||||
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吉田大橋 (よしだおおはし) 旧東海道戸塚宿 |
吉田大橋は柏尾川にかかる旧東海道の橋です。左岸(不動坂側)側の吉田町と右岸側の矢部町の境になっています。また鎌倉、江ノ島方面への道(かまくら道、えのしま道)との分岐点でした。
江戸時代の街道の様子を描いた安藤広重の浮世絵にはこの場所を描いたものがあります。橋の吉田町側にその浮世絵を写した掲示板が掲げられています。 その安藤広重の浮世絵は天保4年(1833)に描かれたもので、柏尾川にかかる吉田橋(よしだばし)を江戸方面から描いたものです。橋の手前には道標が描かれていて「左 かまくら道」とあります。「こめや」とある茶屋が描かれており賑わった様子がうかがえます。 |
戸塚 吉田大橋 | 戸塚宿 吉田橋 安藤広重の絵 |
善了寺 (ぜんりょうじ) 旧東海道戸塚宿 |
吉田大橋から旧東海道を戸塚駅方向に100mほど進むと、右手の狭い道の先に善了寺が見えます。 浄土真宗本願寺派 大鳥山善了寺は、当初真言宗寺院として和泉村にありましたが、江戸麻布善福寺了海の弟子釋了全(弘安8年1285年寂)が浄土真宗寺院に改め開山したといいます。釋了唯(俗称大久保伊豆守信唯、武田信玄の武将)が中興したといいます。 本堂左手高台は、明治初期に明允学舎(学校)がありました。 本尊 阿弥陀如来像、 聖徳太子立像 他 |
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大踏切 (おおふみきり) 旧東海道戸塚駅前 |
旧東海道はJR戸塚駅の脇で大踏切(JR東海道本線、横須賀線、東海道貨物線)を渡ります。この大踏切は「開かずの踏切」として有名です。昭和30年に、不動坂付近から大坂付近まで迂回する新道(戸塚道路、ワンマン道路)が開通しました。現在はその新道が国道1号線(東海道)の本線となっています。
開通した新道は、当時の吉田茂首相(大磯に邸宅があった)がこの大踏切で待たされるのが耐えられず造らせたということから「ワンマン道路」と呼ばれました。 現在(平成26年現在)、踏切の上方に歩行者用デッキ、地下に自動車用道路の工事が進められています。 |
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南向山 清源院 (せいげんいん) 旧東海道戸塚宿 |
大踏切から旧東海道を藤沢方向に200mほど進み、交差点右の道を数十メートルほど入った右手に南向山清源院はあります。
徳川家康(とくがわいえやす:徳川幕府を創始)の側室、於万の方が歳を経て岡津(泉区)に隠居されておりました。 家康が体調を崩したおり、於万の方は見舞いに行き阿弥陀如来像を下賜されました。その阿弥陀如来像を安置するために元和6年(1620)に於万の方が開基となり小石川伝通院三世白誉を開山にこの地に一宇を建立しました。寺の名は於万の方の法名の清源院にちなんでいます。 徳川家ゆかりの清源院は、葵の御紋を掲げることを許された格の高いお寺で、東海道を行き来する大名行列も、清源院の前では、高く掲げている槍の穂先を納めて進んだといいます。 本尊 阿弥陀如来像(「歯吹阿弥陀如来」という) |
戸塚 清源院 | 戸塚 清源院本堂 | 戸塚 清源院鐘楼 | ||||
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内田本陣(うちだほんじん)跡 旧東海道戸塚宿 |
中宿にあった内田本陣は、戸塚宿に2軒あった本陣のうちの1つです。建坪は271坪(約894平方メートル)で、台宿の澤邉本陣より広い建坪であったようです。
場所は、現在スルガ銀行、戸塚郵便局が並んであるあたりです。スルガ銀行前の歩道わきに「内田本陣跡」の碑が建っています。そこに解説文と、内田本陣の間取り図が示されています。 |
戸塚 内田本陣跡 | 戸塚 内田本陣跡 解説 |
澤邉本陣(さわべほんじん)跡 と 羽黒神社(はぐろじんじゃ) 旧東海道戸塚宿 |
バスセンターから、藤沢方面に200mほどの右手に澤邉本陣はありました。澤邉本陣は戸塚宿に2件あった本陣の1つです。現在、澤邉本陣跡の碑とともに「明治天皇戸塚行在所の碑」が建っています。そこに説明文と本陣の間取り図が示されています。建坪は211坪(約696平方メートル)でした。すぐわきにある羽黒神社は本陣敷地内にありました。
初代当主の澤邉宗三は戸塚宿の認知を先頭に立ち幕府に働きかけた人物です。それにより戸塚宿は隣の保土ヶ谷宿や藤沢宿に遅れながら幕府が認める公式の宿場になりました。 |
戸塚 澤邉本陣跡 | 戸塚 澤邉本陣跡 解説 | 戸塚 羽黒神社 | ||||
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惠照山 海蔵院(かいぞういん) 旧東海道戸塚宿 |
惠照山海蔵院は旧東海道沿い、バスセンターから藤沢方面に300mほどの右手にあります。国道から狭い上り坂の先に山門が見えます。
山門の上部にある龍の彫刻は、江戸期の彫刻の名人左甚五郎の作品を複製したものといわれています。
貞冶2年(1363年)の創建、開山は黄梅院二世方外です。 臨済宗 本尊は 釈迦如来像 境内に 利窮翁の碑 門前に 木食観正碑(もくじきかんしょうひ) |
戸塚 海蔵院 | 戸塚 海蔵院 山門の彫刻 | 戸塚 海蔵院本堂 | ||||
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八坂神社(やさかじんじゃ) 旧東海道戸塚宿 |
八坂神社はバスセンターから国道1号(旧東海道)を藤沢方面へ 400mほど、右手にあります。
戸塚、旧東海道沿いにある古社です。元亀3年(1572年)、郷の庄司内田兵庫政親が牛頭天王社を勧請したのが始まりといいます。 「お天王さま」とも呼ばれます。 奇祭といわれる「お札まき」が伝わる神社です。 (八坂神社について 詳しくは 次のページへ ーー> 八坂神社 戸塚 ) |
戸塚 八坂神社 | 戸塚 八坂神社 |
「かまくら道」道標 (「かまくらみち」どうひょう) 旧東海道戸塚宿 |
八坂神社鳥居から藤沢方向に向かったすぐ先に交差点(八坂神社前)があります。この西隅に「かまくら道」の道標(宝永7年銘)が建っています。
この交差点も「かまくら道」「えのしま道」への分岐の1つでした。この道標はかまくら・えのしま方面への道を示すものでした。 この道標は知る限りでも2回移設されています。当初は、この交差点の東隅にありました。それが道路工事のおり、東側の道(鎌倉方向)へ100mほど入った当時あった日立戸塚工場の正門前横に移されました(昭和の頃?)。その後、現在の交差点西隅へ移されました(平成の頃)。 |
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冨塚八幡宮(とみつかはちまんぐう) 旧東海道戸塚宿 |
冨塚(富塚)八幡宮は八坂神社から旧東海道を藤沢方面に200mほど進んだ右手にあります。伝承によりますと、かつて冨塚八幡宮の社殿後方の山上にある塚(古墳)を「富塚(とみつか)」とよび、それが地名となり「戸塚」に変化したといいます。
源頼義(みなもとのよりよし)・義家(よしいえ)父子が前九年の役(1051-62)平定のため奥州に下る途中、この地にて応神天皇(誉田別命(ほむだわけのみこと))と富属彦命(とつぎひこのみこと)の神託を授かり、その加護によって戦功たてることができたと感謝し、延久4年(1072)社殿を造り、両祭神を祀ったのがはじまりとされています。 (冨塚八幡宮について 詳しくは 次のページへ ーー> 冨塚八幡宮 戸塚 ) |
戸塚 冨塚八幡宮 | 戸塚 冨塚八幡宮本殿 | 戸塚 冨塚八幡宮 富塚 | ||||
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上方見付(かみがたみつけ)跡 旧東海道戸塚宿 |
国道(旧東海道)の大阪下あたり、レストランの前に上方見付跡があります。石碑、解説板などが設置されています。
上方見附とは宿場の上方(京都)方面側の出入り口のことです。戸塚宿はここから不動坂手前のスーパーダイエー前の江戸方見付(江戸方面の出入り口)までの間ということになります。 |
戸塚 上方見付跡 | 戸塚 上方見付跡解説 | 戸塚 上方見付跡 | ||||
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第六天神社(だいろくてんじんじゃ) 旧東海道戸塚宿付近 |
上方見付跡からさらに藤沢方面に進むと右手に第六天神社がみえます。この辺から大坂の上りになります。
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戸塚 第六天神社 | 戸塚 大坂 |
大坂の石仏 旧東海道戸塚宿付近 |
大坂を上り始め、坂の途中で右手に8基並んで置かれた石仏があります。
庚申塔とよばれる石仏・石塔で延宝5年から寛保3年のもの。 |
戸塚 大坂の石仏 | 戸塚 大坂の石仏 | 戸塚 大坂の石仏 | ||||
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