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小町大路(こまちおおじ)は、若宮大路(わかみやおおじ)の東側、それに平行に延びている道です。鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)東側の大倉(おおくら;大蔵)から南方向に材木座海岸(ざいもくざかいがん)まで続いている道で、おおよそ、そのうちの大倉の筋替橋(すじかえばし)辺りから乱橋(みだればし)辺りまでをいいます。
中世の小町大路沿いは、夷堂橋(えびすどうばし)から北側は御所や武家屋敷が並ぶ武家の町、南側は町屋が並ぶ商業の地でした。小町大路は、それらの地を南北につなぐ鎌倉の物流を支える道でした。大へん賑わったといいます。 ここでは、小町大路に沿って、筋替橋から南方向に向かって夷堂橋まで紹介します。 |
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<< アプローチ >> |
(JR鎌倉駅(東口)より) |
・(筋替橋の石碑まで) JR鎌倉駅(東口)から鶴岡八幡宮まで若宮大路または小町通りを経由して徒歩 10 〜 20 分ほど。鶴岡八幡宮の東鳥居から東方向に筋替橋の石碑までおよそ100m。 ・(筋替橋の石碑から夷堂橋まで) 筋替橋の石碑から南方向に約1kmほど (付近の略地図は 祇園山ハイキングコース のページへ) |
小町大路(こまちおおじ) |
小町大路は、若宮大路(わかみやおおじ)の東側、それに平行に延びている道です。鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)東側の大倉(おおくら;大蔵)から南方向に材木座海岸(ざいもくざかいがん)まで続いている道で、おおよそ、そのうちの大倉の筋替橋(すじかえばし)辺りから乱橋(みだればし)辺りまでをいいます。
中世の小町大路沿いは、夷堂橋(えびすどうばし)から北側は御所や武家屋敷が並ぶ武家の町、南側は町屋が並ぶ商業の地でした。小町大路は、それらの地を南北につなぐ鎌倉の物流を支える道でした。大へん賑わったといいます。 鎌倉時代、当初、幕府が大倉(おおくら;大蔵)に置かれ、のち若宮大路に移転されましたが、ともにこの道沿いでした。また北条執権邸(ほうじょうしっけんてい)もこの道沿いでした。鎌倉幕府の政治の中心地でした。また有力な御家人の屋敷もありました。 道の南端の材木座海岸には和賀江嶋(わがえじま;築港、鎌倉期に造成され江戸期ころまで利用されていた)が築かれました。多くの船が出入りし、遠く海外の宋(中世の中国にあった国)からの交易船も行き来をしました。物資が荷揚げされ、そして材木座の周辺には魚座や米座などいくつもの座(座 ーー 商業権を独占する場、集団)が設けられ商業地域として栄えました。材木座(ざいもくざ)という地名はそれが現在に残ったものです。 |
筋替橋(すじかえばし) | 小町大路 (辻説法跡付近 北方向) |
筋替橋(すじかえばし) |
金沢街道(六浦路)沿い、横大路、小町大路と交差する辺りに筋替橋(すじかえばし)の石碑が建っています。かつてこの場所に西御門(にしみかど)の谷(やつ)から流れでる小さな流れがあり、筋替橋という橋が掛かっていました。鎌倉十橋にも数えられます。現在は暗渠(あんきょ)になっています。
鎌倉幕府創始のとき、関東の武士をまとめ鎌倉に入った源頼朝(みなもとのよりとも:(鎌倉幕府の創始、初代将軍))が、初めに御所(ごしょ)を設けたのが大倉(おおくら)の地で大倉御所と呼ばれています。治承(じしょう)四年(1180)12月に造営されました。なお鎌倉幕府の創始時期をいつとするかについては諸説あります。以後、大倉御所の周りには侍所などの施設が整えられていき、幕府の廓内が仕切られました。その大倉幕府の南西の角がこの筋替橋辺りになります。 辺りには幕府の有力な御家人の屋敷が建ち並び、北条執権邸(ほうじょうしっけんてい)もありました。 <<筋替橋から宝戒寺まで>> 筋替橋から、金沢街道を南方向に100mほど進みます。金沢街道は右(西方向)に直角に曲がり鶴岡八幡宮の三の鳥居前へ向かいます。小町大路は、この角を南方向に直進するやや狭い方の道に入ります。 この角東側には、宝戒寺(ほうかいじ)の参道の入り口があります。その先に宝戒寺があります。 |
宝戒寺(ほうかいじ) (天台宗) と 北条執権邸跡(ほうじょうしっけんていあと) |
金沢街道(六浦路)と小町大路が分岐する角東側にある宝戒寺(ほうかいじ)の参道の入り口があります。参道を進むと門扉があり、宝戒寺の境内になり、堂宇が並び建ちます。参道の途中中ほどに「北条執権邸跡」の石碑が建っています。 この地は、北条氏の小町邸があったところで、それは北条執権邸ともいわれます。
宝戒寺は金龍山釈満院円頓宝戒寺(きんりゅうざんしゃくまんいんえんどんほうかいじ :天台宗)といいます。 後醍醐(ごだいご)天皇が北条高時(ほうじょうたかとき;鎌倉幕府14代執権)と一族の菩提を弔うため足利尊氏(あしかがたかうじ)に命じ北条執権邸のあったこの地に建立したといいます。 (詳しくは 宝戒寺と北条執権邸跡 のページへ) |
宝戒寺 参道入り口 | 宝戒寺 参道から境内へ | 「北条執権邸跡」 宝戒寺参道 | ||||
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<<宝戒寺参道前から紅葉山やぐらまで>>
宝戒寺参道前から小町大路を南方向に30mほど進んだところ、左方向(東方向)に分岐する狭い路地に入ります。路地を進み、宝戒寺の裏手を境内敷地に沿って進み、滑川に架かる宝戒寺橋を渡るとその先に紅葉山やぐらがあります。 |
紅葉山やぐら |
紅葉山やぐらは、昭和10年(1935)に発見されました。宝戒寺の背後、滑川の対岸の山裾にあります。内部からは、五輪塔や納骨、また「海蔵寺十六井」と同じものが出土しています。鎌倉時代の小町邸(北条執権邸)の敷地はこの辺まで含むでいました。その頃の北条得宗家ゆかりの納骨と思われます。
現在、やぐらのまわりはコンクリートで補強され、入り口にはしっかりした扉が設けられていて、内部を見ることはできません。 |
紅葉山やぐらへ向かう路地 | 滑川の清流 宝戒寺橋から | 紅葉山やぐら | ||||
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土佐坊昌俊邸址(とさのぼうしょうしゅんていあと)の碑 |
若宮大路幕府跡(わかみやおおじばくふあと) と 宇津宮辻子幕府跡(うつのみやずしばくふあと) |
小町大路をさらに南方向へ進みます。土佐坊昌俊邸址の碑から50mほどで右(西方向)に路地が分岐します。この小路はかつて大学辻子とよばれていました。この小路のあたりが若宮大路幕府の敷地の北側の境界と思われています。
小路を西方向に80mほど入ったところの四つ角に「若宮大路幕府旧蹟」の石碑が建っています。この辺に若宮大路御所がありました。 また、この四つ角を南方向に300mほど進むと宇津宮辻子御所があったところで、現在、宇都宮稲荷神社があり、鳥居脇に「宇津宮辻幕府旧蹟」の石碑が建っています。 嘉録(かろく)元年(1225)、宇津宮辻子に御所が新造され、大倉御所から宇津宮辻子御所へと将軍御所が移され、幕府が移転されました。その後、嘉禎(かてい)二年(1236)には若宮大路に面して御所が建て替えられ若宮大路御所へと移されました。なお、宇津宮辻子御所から若宮大路御所への移転は、同一幕府廓内での施設の移設であり、幕府の移転とはみなさないとするのが一般的です。 (詳しくは 鎌倉幕府の移転 と 3つの幕府跡 のページへ) |
若宮大路幕府跡 | 「若宮大路幕府旧跡」の石碑 | 宇都宮神社と「宇津宮辻幕府旧蹟」の石碑 | ||||
(旧)大学辻子の小路 (奥方向;西方向) |
宇津宮辻子幕府跡 |
東勝寺橋(とうしょうじばし)、東勝寺跡(とうしょうじあと)、祇園山(ぎおんやま)ハイキングコース |
若宮大路幕府跡へ向かう小路((旧)大学辻子の道)の分岐から小町大路を南方向進み10mほどで、左(東方向)に道が分岐します。この分岐したがわの道を進むと、滑川に架かる東勝寺橋を渡り対岸の山の中腹にある東勝寺跡、さらに祇園山ハイキングコースへと向かいます。分岐には各方向の案内標識があります。
東勝寺跡の背後の山崖には高時腹切やぐらをいわれるやぐら(横穴)があります。 東勝寺は、開基は鎌倉幕府三代執権の北条泰時(ほうじょうやすとき)で、母の追善のため嘉禎3年(1237)に建てたとされています。開山は退耕行勇(たいこうぎょうゆう)です。 元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡(新田義貞の鎌倉攻め)の時、北条氏総領の北条高時(ほうじょうたかとき;鎌倉幕府14代執権)以下一族郎党は東勝寺にこもり、自ら火を放ち自害したと伝えられています。 その後、寺は再興され、室町時代には関東十刹の第三位に列する名刹となりましたが、戦国時代ころに廃絶しました。 (詳しくは 祇園山(ぎおんやま)ハイキングコース のページへ) |
小町大路 東勝寺橋分岐 (北方向) | 東勝寺橋 | 東勝寺跡 高時腹切やぐら | ||||
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妙隆寺 (みょうりゅうじ) (日蓮宗) |
東勝寺跡、東勝寺橋への道の分岐から小町大路を南方向にさらに100mほど進みます。右手(西側)に妙隆寺 の参道が分岐し、その先に山門、本堂が現れます。小じんまりとしたお寺です。参道の入り口には石塔、案内標識が並びます。
妙隆寺 は叡昌山 妙隆寺 (えいしょうざん みょうりゅうじ) といいます。 至徳二年(1385)の創建で、開山は日英(にちえい)、開基は千葉胤貞(ちばたねさだ:(1288-1336))です。 日親上人ゆかりの寺です。日親(にっしん:(室町時代の日蓮宗の僧))は二代住職で、「法華経」を厚く信仰した僧で、「鍋かむりの日親」として知られています。 「鎌倉江の島七福神めぐり」の寿老人を祀る寺です。 (詳しくは 妙隆寺 のページへ) |
小町大路 妙隆寺 参道入り口の石塔 | 小町大路 妙隆寺参道入り口 | 妙隆寺 本堂 | ||||
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日蓮上(聖)人辻説法跡 (にちれんしょうにんつじせっぽうあと) |
妙隆寺の参道入り口から小町大路を南方向にさらに100mほど進みます。左手(東側)に「日蓮上(聖)人辻説法跡」が現れます。
石塔・石碑、解説板など立ち並びます。 日蓮上人は,建長5年(1253)安房小湊から鎌倉に入り松葉ヶ谷(まつばがやつ)に草庵を結んだといいます。そこは現在松葉谷小庵跡といわれています。 鎌倉に入った日蓮上人は、辻々で「法華経」の功徳を説く説法を行ったといいます。この辺はその1つ箇所を思われています。 鎌倉時代の小町大路は。武家屋敷の立ち並ぶ界隈と、商業の町家の界隈を結ぶ重要な道で人出も多く賑わったと思われます。日蓮上人はそんな辺りを辻説法の場所に選んだのでしょう。 |
日蓮聖人辻説法跡 | 日蓮聖人辻説法跡 |
日蓮聖人辻説法跡 | 日蓮聖人辻説法跡 | 日蓮聖人辻説法跡 解説板 | ||||
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蛭子神社(ひるこじんじゃ) |
「日蓮上(聖)人辻説法跡」から小町大路を南方向にさらに100mほど進みます。左手(東側)に蛭子神社の鳥居が現れます。鳥居の脇には「村社蛭子神社」と彫られた石標が立ちます。
鳥居をくぐり進むと、左手に社殿が現れます。手前には神輿庫があります。祭神は大己貴命(おおむなちのみこと)です。 小町大路の先、夷堂橋(えびすどうばし)の傍らにかつて夷堂(えびすどう)がありました。それは源頼朝(みなもとのよりとも:(鎌倉幕府の創始、初代将軍))が、幕府の裏鬼門の方角に当たるその地に鎮守として建てたと伝わります。その後、その地には本覚寺が創建されました。さらに年月を経て門前にあったという夷堂はその境内に遷されました。 明治二年(1869)、明治政府の神仏分離政策によって、夷堂はこの地に遷されてきました。同時に元々この地にあった七面大明神と宝戒寺の境内にあった山王大権現を合祀したといいます。 ((旧)夷堂、本覚寺に関しては 本覚寺 のページへ) |
蛭子神社 鳥居 | 蛭子神社 社殿 | 蛭子神社 社殿 | ||||
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蛭子神社 神輿庫 | 蛭子神社 境内背後の滑川 | |||
大巧寺(だいぎょうじ) (日蓮宗系単立寺院) |
蛭子神社(ひるこじんじゃ)の鳥居前から小町大路を南方向にさらに80mほど進みます。右手(西側)の角に石塔が建つ小路が大巧寺の参道です。小路の奥に門柱が、その奥に本堂が見えます。
長慶山 正覚院 大巧寺 (ちょうけいざん しょうがくいん だいぎょうじ)といます。境内の背後はJR鎌倉駅に近い若宮大路に面し、そちらにも出入り口があります。 産女霊神(うぶめれいじん、うぶすめれいじん)を祀る安産祈願の寺です、「おんめさま」と呼ばれています。 (詳しくは 大巧寺 のページへ) |
大巧寺 参道(小町大路から) | 大巧寺 本殿 | 大巧寺 裏門(若宮大路側) | ||||
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<<大巧寺参道入り口から夷堂橋まで>>
夷堂橋(えびすどうばし)は大巧寺の参道入り口から小町大路を南方向に100mほどのところにあります。夷堂橋に向かって右手に本覚寺境内の生垣を見て進むと、境内内に新夷堂の起り(むくり)のある宝形造りの特徴のある屋根が見えます。道の行く手正面には本覚寺庫裏の側門が見えます。夷堂橋まで来ると、手間すぐのところに本覚寺の正面の仁王門が建ちます。 小町大路はこの橋で滑川を渡りさらに南方向材木座海岸方面へ続いています。 |
小町大路から 新夷堂 | 夷堂橋から 本覚寺仁王門 | |||
本覚寺 (ほんがくじ) (日蓮宗) |
妙厳山 本覚寺(みょうごんざん ほんがくじ)といいます。東身延と称され日蓮宗の本山となっています。
創建は永享八年(1436)。開山は一乗房日出(にっしゅつ)です。 本覚寺が建っている地は、かつてより夷堂(えびすどう)がありました。それは源頼朝(みなもとのよりとも:(鎌倉幕府の創始、初代将軍))が、幕府の裏鬼門の方角に当たるこの地に鎮守として建てたと伝わります。 夷堂は本覚寺が創建されころからしばらくはその門前にあったといいます。さらに年月を経て門前にあったという夷堂はその境内に遷されました。 明治二年(1869)、明治政府の神仏分離政策によって、夷堂は現蛭子神社(ひるこじんじゃ)に遷されました。 現在、本覚寺境内にまだ新しい新夷堂が建ちます。この新夷堂は昭和五十六年(1981)に再建されたものです。 (詳しくは 本覚寺 のページへ) |
本覚寺 仁王門 | 本覚寺 本堂 | 本覚寺 新夷堂 | ||||
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夷堂橋(えびすどうばし) |
夷堂橋は本覚寺の門前で滑川に架かる橋です。小町大路は筋替橋からこの橋を渡り材木座方面へ続きますが、この橋の北側は武家屋敷が並ぶ武士の町、渡った南側は町屋が並ぶ商業の町というように発展していきました。
本覚寺が建っている地は、かつて夷堂(えびすどう)がありました。それは源頼朝(みなもとのよりとも:(鎌倉幕府の創始、初代将軍))が、幕府の裏鬼門の方角に当たるこの地に鎮守として建てたと伝わります。夷堂橋の名前はそれに因ると思われますが他説もあります。 |
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